四中を辿って~創立70周年を迎えるにあたって~

 

 

 

 
 
 
 
  
 
垂水区上高丸に佇む「垂水中学校」。
「商大筋」から東にのびる、このなだらかな坂道に大きな”想い”を抱く先輩達がいます。
     ※神戸商科大学は平成2年兵庫県立大学となり西区に移転。また、四中当時は「高商道」と呼んでいたようです。
 
兵庫県立第四神戸中学校…
星陵高等学校がその流れを汲むことは知っていても、私達はその歴史についてあまりにも多くのことを知らずに過ごしてきました。

1941年(昭和16年)の設立時には校舎がなく、北長狭国民学校(現在の生田中学校)を間借りしてスタートを切りました。
3年後に現在の垂水中学校の敷地内にできた木造校舎に移転するも、校舎は軍に接収。
勤労奉仕、学徒動員で学業続行が難しい時期が続いたそうです。
終戦によりやっとのことで垂水校舎に戻るも、今度は原因不明の出火で校舎が全焼…
これでもか、これでもか…と言わんばかりに襲い続けた苦難を、団結して乗り越え、共に精一杯生き抜いてきたのが “四中”の先輩方だったのでしょうか。

80年を超える人生を歩んでこられた『神戸四中会』の方々のお話に触れながら兵庫県立第四神戸中学校の足跡を紹介していきたいと思います。
尚、貴重な写真の数々は平成18年に四中3回生(星陵高校1回生)の皆さんによって編集・発行された「戦禍を経て“ここに喜寿”」と平成19年に同窓会が発行した「50周年記念誌」から転載しています。
 

四中発祥の地


神戸市中央区北長狭通り4丁目現在の生田中学校の南塀にこの碑が刻まれています。

第1回入学許可者発表日風景(昭和16年3月25日)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

第3回入学許可者発表日風景(昭和18年3月26日)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

ひざ丈のズボンからのぞいた幼い足が可愛らしい写真。これが兵庫県立第四神戸中学校の合格発表の風景です。
校庭の倉庫に張り出された合格者名簿の前に集っているのは、当然のことながら受験した小学生達…

 
まだ校舎がなかったため、北長狭国民学校(現在の生田中学校)を仮校舎としてのスタートでした。
考査方法は口頭試問と身体検査によるもので、現在のような筆記試験はありませんでした。数人の試験官に取り囲まれ、
順に質問を浴びせられる口頭試問はとても緊張したそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第1回入学式(左・昭和16年4月10日)と第3回入学式(右・昭和18年4月8日)の様子です。
この北長狭国民学校での入学式は四中の1回生から3回生までの3年間続きました。
 
北長狭国民学校の講堂にてこの第1回入学式が行われた時、飯野竹二郎初代校長が生徒達におっしゃった言葉は
「一校一心 欣求奉公 率直清明 無私精進 遠大抱負 足下鍛練 敬愛和楽 気品存養 」で、これがそのまま四中教育の
指導方針となりました。
 
同年9月に「四中誓詞」「四中省語」が制定され、また「四中学徒の歌」も同年10月28日に校歌に準ずるものとして発表されました。
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
垂水校舎へ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

神戸市垂水区上高丸1丁目                                         北長狭国民学校から移転時の校舎(昭和19年4月)
現在の垂水中学校西門にある校跡の碑

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1944年(昭和19年)4月、完成には至っていないものの木造2階建て2棟の垂水新校舎が出来ました。
生徒自ら机・椅子を大八車に積んでリレーで運び、書類など運べるものは風呂敷に包み国鉄に乗って、駅から学校までは徒歩で運んだそうです。
気の遠くなるような引越しですが、それでも新しい校舎に皆胸を躍らせたことでしょう。
ところが、時代は太平洋戦争末期の混乱の中…
1945年(昭和20年)1月に海軍経理学校が校舎を接収したのを受け、一年も経たないうちに南須磨国民学校(現 鷹取中学校)に間借り移転。さらに同年6月には神戸の大空襲でその南須磨国民学校が焼失し、須磨浦国民学校へ間借り移転…
と校舎を求めて転々とします。
 
終戦によって海軍経理学校は廃校となり垂水の校舎に戻ったも束の間、1946年(昭和21年)2月3日、あろうことか北側校舎から原因不明の出火。市の水道はまだひかれておらず、校地内の井戸も空井戸だったため、消火するすべもなく校舎は2棟とも全焼してしまいます。戦禍をくぐり抜けてきた校舎を火災によって失ってしまった失望感は多感な年頃の生徒達に重たく重たくのしかかったことでしょう。翌日月曜日からの試験を控えた日曜日の出来事でした。
 
同年6月、海軍経理学校の残したバラック校舎を改造し、やっと仮校舎が完成しました。仮校舎と言っても板壁で仕切っただけの粗末なもので、床は土、天井はなく、雨が降れば傘をさすというような環境だったそうです。隣の教室のみならず、複数の教室の授業が同時に聞こえてくるような状態でも、あるべきところにようやく校舎が落ち着いた…
それが冒頭の上高丸の地だったのです。
 
そんな四中を今度は季節はずれの台風が襲いました。商大筋から山を削って造成された校地に入るには、杭に編み竹を絡ませた土止めを階段状に配置した進入路を使用するしかありませんでした。その進入路が台風の雨で崩れ落ちてしまったのです。崩れた進入路は修復出来ないまま、そのまま踏みならされて現在の垂水中学校への坂道の基盤として残っています。
 

1947年(昭和22年)10月19日(日)第5回体育大会。全学年揃った貴重な写真。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 
学徒動員

太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の年に産声をあげた兵庫県立第四神戸中学校。その歴史を辿る時、学徒動員を避けて通るわけにはいきません。垂水の自校でやっと授業を受けられるようになった矢先、時代は学徒動員を余儀なく実施していきました。生徒達は動員先で軍の監督下に入り、工場への出退時のみ学徒としての団結を許されました。
学徒動員とは太平洋戦争下における労働力不足を補うため、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料増員に強制的に勤労動員されたことをいいます。この時代の動きを拾ってみますと…

1941年(昭和16年)8月    文部省は中等学校以上の学校報国団再編成を指令 「学校報国隊の体制確立方法」が決定
11月      国民勤労報国協力令施行規則公布
1942年(昭和17年)5月    学生・生徒の農繁期勤労動員など種々の勤労作業が開始
1943年(昭和18年)5月    勤労報国整備要綱発表
6月    学徒戦時動員体制確立要綱発表
7月    女子学校動員決定
1944年(昭和19年)2月    「決戦非常時措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」が決定
1945年(昭和20年)3月    「決戦教育措置要綱」が決定

1938年の文部省通牒によって、学生・生徒は長期休業中に35日勤労奉仕することをすでに義務付けられていましたが、戦争の拡大によって軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年遂に内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。翌1944年には「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」で学徒全員の工場配置が閣議決定。さらに翌年の1945年には「決戦教育措置要綱」によって事実上学業は一年間停止。卒業者は勿論、上級校合格者も継続して学徒勤労総動員の体制がとられました。

兵庫県各中等学校に於いては、5年生の軍事工場動員に続き、4・3年生の動員、2年生の食料増産・防衛施設作業などの順に動員されていったようです。1944年6月10日には神戸市内及び近郊の中等学校以上の勤労動員学徒の壮行式が西代市民競技場で行われました。式では双発戦闘機屠龍や飛燕など数機が激励飛行したそうです。第四神戸中学校からは4年生(四中1回生)全員が参加しました。

第四神戸中学校に於ける学徒動員の記録を辿ってみますと、1944年6月21日から当時4・3年生である1・2回生が川崎航空機工業株式会社明石工場へ、1945年5月1日から当時3年生の3回生が国鉄鷹取工機部へ動員されています。

【四中1回生】  北条へ農業作業  社へ飛行場建設 川崎航空機工業株式会社 明石工場
【四中2回生】  嬉野及び三木飛行場建設勤労奉仕  川崎航空機工業株式会社 明石工場(飛燕・屠龍など戦闘機の生産)
※明石大空襲後は明石、茨木、高槻、二見、鳥羽の各工場へ疎開配転
【四中3回生】  国鉄鷹取工場  明石市林崎町陸軍高射砲陣地の構築
【四中4回生】  明石市林崎町陸軍高射砲陣地の構築  鷹取の専売公社

学徒動員自体、私達には想像も及ばないことです。
しかし忘れてはならないのは、1945年1月19日の川崎航空機工業株式会社明石工場爆撃により、動員中の第四神戸中学校2回生の3名が尊い命を落とし、数名が負傷したという事実です。 
当時中学3年生だった青年が動員先で亡くなり、その友人を担いで必死に病院という病院を駆け回った同級生達がいたという歴史を後輩である
私達は心に留め、後世に伝えていかなければなりません。 

この混乱の中、3月27日に第四神戸中学校第一回卒業証書授与式が仮校舎南須磨国民学校の講堂で静かに行われました。父兄の参列はなく、入学時269名を超えた生徒は僅か185名。明石工場より配給された乾燥バナナひと袋が卒業生への唯一の引出物だったといいます。落ち着く校舎もなく、思いっきり勉強する権利も奪われ、人生で一番多感な時期を戦争一色で過ごして卒業されたことに胸が痛む思いがします。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勤労奉仕 高射砲陣地構築(昭和19年)
絵・吉田欣也(四中3)
文責・事務局 山田祐子