「石のお金を運んだはなし」拓海 広志 (本名:恵谷 洋)(高34)

こんにちは、拓海広志です。本日はよろしくお願いします。私的な話から始まって申し訳ありませんが、僕は子どもの頃からどうしても船乗りになりたかったので、大学は神戸商船大学(現神戸大学海事科学部)の航海科に入り、そこで一生懸命に海や船の勉強をしていたんです。勿論、一生懸命というのは嘘でして(笑)、暇を見つけては日本と世界の各地をうろうろしていたというのが実情なんですが、延べ一年間に及ぶ乗船訓練だけは真剣に取り組みました。

航海科の学生は、卒業航海として日本丸ないしは海王丸という帆船に半年間乗り込むんですが、僕の場合は日本丸に乗る機会を得ました。日本丸は約3千トンの大型近代帆船でして、神戸からサンフランシスコまで風任せで35日ほどかけて行くわけです。これは非常に面白い体験だったのですが、当然のことながらこうした近代帆船でもそれなりに苦労をしながら海を渡っていくわけですね。僕はこの日本丸での航海の最中に、様々なインスピレーションを得ることができました。今自分がやっている様々なことの原点は、そこにありそうな気がしています。

一番大きなインスピレーションだったのは、日本丸のような近代帆船を使っても1月以上もかけて苦労しながら海を渡るというのに、太平洋の島々に人々が移民拡散したのはそうした近代帆船が生み出されるよりも遙かに古い時代のことだったということについてです。モンゴロイドの拡散は何万年も前から始まったと言われていますが、太平洋の島々に人々が渡ったのは数千年前からのことなのですね。

航海術の基本は、自船の位置を知ることと、これから向かう方向を決めることです。僕たちが商船大学で教わる航海術は、当然のことながら近代航海術です。現在の航海者はヨットマンなんかも含めて、GPSのように非常に精度が高く、便利なものを使って自船の位置を割り出すんですが、日本丸の上では大航海時代と同じように羅針盤や六分儀を使った天測によって自船の位置をつかみます。しかし、そうした航海計器のなかった時代の人々はどうやって大海を渡ったのでしょうか? その問題意識が僕の出発点でした。 僕には、古代の航海者たちが単なる行き当たりばったりで太平洋を渡ったとは、ちょっと思えません。彼らはあれだけ広大な海にきちんと移民拡散しており、その際に様々な食べ物や、犬とか豚などの家畜も運んでいます。つまり、彼らはかなり計画的に移住したと思われる節があるのです。また、彼らの子孫が島々で繁栄しているということは、選りすぐられた屈強な男たちだけが海を渡ったのではなく、家族単位で渡海したわけで、やはり彼らには何らかの確信があった筈だと思うんです。

さて、こんな風に想像が膨らんでくると、こうした航海を可能にした技術とはどんなものだったのかという話になってきます。ある技術が生まれてくる前提には、自然をどのように解釈し、捉えるかといった「知の体系」みたいなものが必要だと思うのですが、古代人の造船・航海技術の背景にあったであろう「知の体系」こそが、徐々に僕にとっての最大の関心事になってきました。 こうしたことを神秘主義的に語ろうと思えばいくらでも語れるのでしょうし、もっともらしい物語も作れるでしょう。しかし、それよりも彼らの「知の体系」を科学として捉え、それを近代科学とはパラダイムが異なるものの、現代に生きる僕たちの身体知とも何らかのつながりを持つものとして捉え直す方が面白そうです。

その後、僕はミクロネシアのヤップという島に通うようになります。それは古代の航海術の片鱗がヤップの離島である中央カロリンの島々に残っていたからです。ところが、物事というのは一つのことに深く突っ込んで行くと、自動的に幅も拡がっていくという面があるわけですね。例えば、僕が仲間と一緒にヤップに深入りしていくと、今度は現在のヤップが直面している現実が見えてくるわけです。 現在のヤップはアメリカの強い影響下に置かれており、それによって消費生活が近代化したにもかかわらず、生産形態は決して近代化しておらず、アメリカの援助なしでは生活が成り立たない状況にあるわけです。援助漬けの中で伝統的な仕事や暮らしを失った人々にはよく見られることですが、ヤップにもアルコールや麻薬に耽溺する人が増えています。 また、こうした社会環境の変化のせいもあってか、ヤップでは自殺率が非常に高いのです。つまり、観光客には南海の楽園のように見えるヤップ島の社会の裏側には、様々な問題があるわけですね。そうすると、今度は急に社会派になったりして(笑)、現在のヤップ社会が抱える問題についても少し気になってきます。

(ヤップ島の石貨)

ヤップ島には、漫画のギャートルズに出てくるような大きな石貨がありますが、かつてここではそれが流通していました。ヤップから南西へ五百キロほど行くとパラオという島々があります。古来ヤップの男たちはカヌーに乗ってパラオ諸島に渡り、そこにあるライム・ストーン(結晶石灰岩)という美しい石を切り出して円形に加工した後、ヤップまで持ち帰りました。それが石貨です。 石貨は非常に大きなお金ですから、容易には持ち運びができません。そこで、それは島のある一定の場所に置かれたままで、所有者がそれを何かの目的に使用する度に、島の人々が所有権の移転を確認し合うといった形で使われてきたようです。 石貨には様々な物語が付与されています。最初の物語は如何に苦労してこのお金がパラオから運ばれてきたか。その後は如何に有意義なことに使われてきたか。そして、そうしたことによって石貨の価値はどんどん変わっていくわけですね。つまり、島の人々がそれにまつわる物語を共有することによって、石貨の価値が決まるわけです。 ところが、ヤップ~パラオ間の石貨交易航海というのは、百年ほど前に途絶えたきりになっています。また、現在ヤップで流通しているお金は米ドルでして、石貨は余程重要な場面において儀礼的に使われるに過ぎなくなっています。 こうした状況下において、僕がいつもお世話になっていたヤップの老酋長の一人ベルナルド・ガアヤンさんが「石貨は単なる観光用の見世物として置いてあるのではなく、ヤップ人の魂の象徴なんだ。出来ることならば、パラオまで石貨を取りに行く航海をもう一度やってみて、様々な問題に直面している今のヤップの若い連中にかつてのヤップ人の生き様を見せたい」というようなことを言い出し、僕に一肌脱いでほしいと言ったのです。そこで僕は日本に戻って仲間たちにこの話をし、それに呼応して10人近い有志が集まってくれました。

ヤップという島は人口1万人くらいの小さな島なんですが、表側の政治を担うミクロネシア連邦ヤップ州政府と裏側の政治を担う酋長会議の間には微妙なパワー・バランスがあります。僕たちはヤップにおいて特定の個人と結びつく形でこのプロジェクトを進めたくなかったので、島の人々との話し合いに二年以上の時間を要しました。しかし、最終的にはヤップ内でのコンセンサスが取れ、僕がヤップ州知事及び大酋長との間で契約書にサインを交わし、ヤップの公式行事としてプロジェクトが実施されることになりました。 日本のテレビ番組の制作会社の中には、特定の個人と結びつく形でこの種のイベントを企画し、お金の力で強引に実現させてしまうケースもあるそうですが、僕たちの場合はプロジェクトに参加したメンバーがなけなしの貯金をはたいて資金を用意してやっているわけですから、そんなやり方は取れません。また、まず何よりもそういうやり方を取るとヤップの人々の気持ちは一つにまとまりませんので、僕たちはあくまでも正攻法でいこうと思ったんですね。 こうして正式な調印が終わり、カヌーの建造が開始されたわけですが、どうせやるならば出来るだけ昔のやり方でやろうということで、森の奥からタマナ(テリハボク)の巨木を切り出し、それを刳り抜いて船体とすることになりました。この時に原木の所有者に対しては酋長会議より石貨で支払いが行われたそうです。

(カヌーの建造風景)

(帆走するカヌー)

ヤップには木はそもそもカヌーであるという話があります。つまり、木というのは仮の姿であって、その中には早くカヌーの姿に変えてほしいと願う精霊が潜んでいるので、その精霊の呼び声のする木を選んで、カヌーを作らねばならないというわけです。 ヤップでは、カヌーを作るときには木が成長するのと同じくらいのスピードで作りなさいと言われています。実際僕たちのカヌーの建造には電気的な工具はほとんど使用されず、昔ながらのやり方に従いながら作業は実にゆっくりと進められ、結局原木の切り出しからカヌーの完成までには約1年半の時間を要しました。この間、僕たちの仲間が1名ヤップ島に常駐し、カヌーの建造記録を取っています。これは学術的に見ても極めて貴重な資料だと思います。 ところが、いざ航海をしようということになった時に、今度はパラオ側が反対するという難題が持ち上がりました。何故かと言うと、ヤップの人々がパラオのライムストーンから石貨を作って持ち帰ったというのは、パラオ側から見るとヤップに侵略された歴史だからです。ところが、パラオの方は観光立国していますから、ヤップよりも遙かにさばけたところがありまして、結局僕たちの交渉に対して最終的にはOKしてくれました。一度話がまとまってからのパラオ側の積極的な協力ぶりには、関係者一同大いに感激したものです。 そんなわけで、何だかんだと足かけ5年ほどかけて、僕たちはこのプロジェクトを実現させたわけですが、資金集めにはとても苦労しました。大手企業の中にはスポンサーシップを検討してくださったところもあったのですが、残念なことに「いついつまでに必ず実現してください」といった類の条件を提示されるために、僕たちの方がそれを受けられないケースがほとんどでした。何故ならば、石貨交易航海はヤップの人々にとってこそ意味があるものであり、僕たちはそのお手伝いをしているに過ぎぬ以上、その実現についてギャランティーできる立場にはなかったからです。

(ヤップ島の酋長たちにお礼のスピーチを行う拓海)

結局、大手企業からのスポンサーシップはほとんど得られず、渋谷潜水工業の渋谷正信さんをはじめとする多くの方々からのカンパと、プロジェクトに参画したメンバーからの個人的な出資、そしてサントリー及び産経新聞社からの奨励金、またTBSの「報道特集」という番組からいただいた取材協力費などによって、何とか必要な資金を揃えたわけです。また、西宮の古野電気も様々な形でプロジェクトを支援してくださいました。

このプロジェクトの最後を飾ったヤップ~パラオ間の往復航海において、船長を務めてくださったのが、ヤップの離島にあたるサタワル島出身の高名な航海者マウ・ピアイルックでした。本来ならばこの航海の船長はヤップ本島民が務めるべきなのですが、本島にはもうカヌーで外洋に出て行ける人がいないので、急遽マウに白羽の矢が刺さったわけです。しかし、かねてよりマウの航海術にふれてみたいと思っていた僕たちにとって、この人選は何よりも嬉しいことでした。

この航海の詳細については既にいろいろなところに書いていますので、今日はこれ以上語らないことにします。当時、このプロジェクトに参加したメンバーの大半は僕も含めてまだ20歳代半ばでしたので、いろいろ大変なこともありましたが、なかなか素敵な「青春」だったと思います(笑)。このプロジェクトが進められていたとき、僕はジャカルタに住んでおり、他のプロジェクトメンバーはソウル、大阪、東京に住んでいましたが、皆よく連携してやれたと思います。また機会があれば、こういう楽しい企画に挑んでみたいものです。今日はどうもありがとうございました。
※参考記事
拓海広志『イメージの力で海を渡る』
http://home.att.ne.jp/iota/okd/world-reader/nature/takumi-060522.html

拓海広志『渡海―人は何故海を渡るのか?』
http://d.hatena.ne.jp/HelloseaWorld/20080504/p1

http://d.hatena.ne.jp/HelloseaWorld/20080505/p1

http://d.hatena.ne.jp/HelloseaWorld/20080506/p1

拓海広志『石貨を運ぶカヌー航海のはなし』
http://d.hatena.ne.jp/HelloseaWorld/20061101/p1

(本文は1999年に行われた講演を基に編集したものです)