「普及指導員という仕事」藤浪 哲也(高34)

学生時代はバブル景気が健在で、好条件の就職活動を着々とこなしてゆく同級生をよそ目に、就活の取り組まなかったのを覚えている。だからと言って、特に研究者として大学に残ろうとする熱意もなかった。ある日、助教授の先生から「就職どうするのか?」と聞かれたので「大学を出たら、しばらく充電期間をとって将来を考えますよ。」と返答したところ、こっぴどく叱られたことがあった。先生は高名な研究者で、己に厳しく真面目な東北人なので、ちゃらんぽらんな私にたいそう腹が立ったのだと思う。普段は優しい人が、この時ばかりは激怒して翌月の兵庫県職員採用試験を必ず受験し合格すること、受験日までの1ヶ月間は学校に出入り禁止だと命令された。民間企業は完璧に出遅れて、公務員しかないなとは思っていたが、特に公務員になりたいわけでもなく、モチベーションが低いままに、ただ先生との約束を守るために受験勉強に励んだのを覚えている。6人募集の畜産職採用の一次試験受験者が4人という定員割れのなか、一次試験で1人落ち、二次面接で1人落ちるという超低レベルの戦いに勝利し、平成元年、兵庫県職員としての社会人生活がスタートした。

行政の堅苦しい仕事に興味があるはずもなく、試験研究にもうんざりしていた自分にとって現場で働く農業改良普及員(後に普及指導員と改名される)という職種は、消去法の末行き着いた結果だった。今振り返ると、頭が良く、社会性も立派で厳しい競争率を勝ち抜いた現在の新規職員を見ていると、当時の自分はバブル景気に浮かれ、単に調子に乗っていただけなのだと情けなく思えてくる。

新任地は神戸農業改良普及所という神戸市西区神出町にある田舎庁舎だった。公務員という堅苦しいイメージとは違う自由奔放、強烈な個性を持つ上司や先輩達、また農家の人たちに可愛がられて、不自由なく普及指導員としての人格が形成されたが、仕事は結構きつかった。しかし、夜には明石の桜町で酪農青年や農業青年クラブ員としょっちゅう飲んだくれていたのが懐かしい。普及の仕事は人間力に深くかかわる仕事であり、とても難しく神戸には5年間在籍したが、大した業績を上げることもなく、転勤時に酪農青年部長に身に余るお餞別をいただいた時は、自分の不甲斐無さに悔し涙が出てきたのを覚えている。

2か所目は加古川農業改良普及センター明石支所で、交番の2階が事務所になっていた。神戸での後悔を繰り返さないためにも、絶対必要と思われる課題を設定することに集中した。そして、「365日休日の無い、酪農家に休日を取得してもらうための酪農ヘルパー制度を確立すること!」これを、明石での最重要課題とした。途中、先輩普及員の横やりがあったり、体調を崩すなどのトラブルもあったが、そこそこ成果は出せたのではないかと評価できた。農家の人に感謝される事が、こんなにも嬉しいものかと実感できたのはこの時で、明石の在籍期間5年と神戸5年と合わせ、10年かかってやっと一人前の普及指導員になれた気がした。

3か所目は姫路農業改良普及センター。ここには6年間在籍したが、ユニークな仕事をできる機会に恵まれた。これまでの畜産農家支援から一転して、家島町担当、姫路市担当という地域コーディネートの業務が主体となった。例えば、絶滅寸前であった家島町花「ささゆり」の復活支援の仕事があった。蚊に刺されながら山に入り、野生のささゆりを探し出し、採取した球根を県立農業技術センターにおいて鱗片培養増殖させ里山に戻す。地道な活動を2年間続け一定の成果が見られた後、地元「家島のささゆりを守り育てる会」にバトンタッチした。ささゆりは美しい花で、山に戻しても発見した人に採取されてしまうため増殖しにくいのだが徐々に増えていったと聞いている。
アドレス(家島のササユリ(神戸新聞))
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9711/2003/k031231.htm

家島町で倒産した土建会社の社長に依頼され、家島諸島の男鹿島(採石場、ダイナマイトで有名!)でダチョウ牧場経営を開始する支援を行ったこともあった。いろいろ事例調査をしたが、当時はダチョウの飼育マニュアル的なものはなく、自らの実行と観察結果のみを手掛かりに飼育方法を築き上げていった。飾磨港から船で男鹿島に向かう出張は何ともいえず冒険心に満ち、ワクワクしながら現場に通ったのを思い出す。残念ながら完成前に転勤となったが、後任担当者の努力もあり今でも存続していると聞いている。
アドレス(家島の観光)
http://h-ieshima.jp/charm.html

姫路普及センターの時は、多くの優秀な農業経営者と知り合えたことが一番の財産となっている。特に一生付き合いたと思う、優秀な若手農業者との関係は自分にとって貴重な財産である。
アドレス(株式会社兵庫大地の会)
http://www.yumesan.jp/img/profile.pdf

姫路の後は上郡町の光都農業改良普及センター。ここには2年間しか在籍しなかったが、「気合の入った百姓魂」を持つ農業者や若手農業者と過ごした時間は本当に貴重なものだ。昨年度設立した、兵庫県下の若手大規模稲作経営者が組織する株式会社「兵庫大地の会」の主力メンバーでもある。また、子供たちに安心して食べさせることができるコメづくりをコンセプトに発足した「真心ファーマーズ」は爽やかな農業のイメージを全国に発信している。西神戸の「めぐみの郷」各店に無農薬米などを出品している。これからもますますの活躍を期待したい。
http://www.magokoro-farmers.com/

5か所目は加古川農業改良普及センターである。在籍した3年間ではこれまでの普及活動の集大成ともいえる業績を上げることができた。特に加古川市志方町東地区の14営農組合の広域法人「農事組合法人 志方東営農組合」(組合員数:12集落609戸、組合員面積:290ha)設立支援は、本店支店方式という新しい会計制度を導入することで規模の小さな営農組合でも法人化できるモデルであり、新たな集落営農法人の形態として全国的にインパクトを与えることができた。おかげさまで他県に講演に行く機会をいただき、友人が増えたのはラッキーだった。

アドレス(農事組合法人 志方東営農組合)
http://sikatahigasieinou.or.jp/index.html

すべての普及活動において、そして普及指導員として、私が最も大切にしているのは「和」を生みだすことである。農業も他の産業と同様に収益性が重視されるようになってきているが、収益性よりも先ず重視すべきは持続性である。事業の持続性を高めるポイントは人の和、地域の和をつくることである。「和を以て貴しと為す」と唱えた聖徳太子の憲法十七条は私の普及活動のバイブルとなっている。和は時として非常に大きな力を生みだすものだ。

青少年育成のほか、高齢者の生きがいづくりも普及の重要な仕事である。Facebookでも紹介したが、志方東営農組合のポン菓子部会は高齢者のおっちゃん達6名に働きかけて発足した。古物商のメンバーが持っていた古いポン菓子機を引っ張り出してきて米やら小麦やらをポンして農業祭等で販売した。農業祭前夜は、全員遅くまで販売用ポン菓子の生産に頑張ったものである。通常の就寝時間になっても農業倉庫内でポン菓子の爆発音が鳴り響き、その合間にワイワイ騒いで楽しかった。話題の中心は健康の事で、「ぽんこつポン菓子機の寿命よりワシらの寿命の方が先に尽きるわな(笑)」と笑えないジョークを連発していたメンバーだが、最近聞くところによると新品のポン菓子マシーンを購入してバリバリ生産しているらしい。普及指導員としては最高にうれしい情報である。

平成22年度より、専門技術員という立場で県下の普及指導員活動をサポートしている。これまで、自分の仕事は常に他人のサポートをすることであった。少年期にはどちらかと言えば、他人と関わりを持つことがそんなに好きでなかった自分にとっては本当に驚きである。仕事の順調さとは裏腹に、プライベートでは苦しい時期もあった。再起不能な悲しみ苦しみに打ちのめされる事もあったが、そんな時に自分を支えてくれたのは仕事に対する強烈な使命感であった様に思える。自分を必要としてくれる人がいるという意識が窮地から救い出してくれた。これからも感謝しながら普及指導の仕事に向き合ってゆきたいと考えている。