「星陵の美術室」堀井 聰(高35)

35回生の堀井聰と申します。僕は画家を生業にしております。と、聞かされても画家ってどうやって生活しているの?と思われる方が多いと思います。

僕の場合は、百貨店の美術画廊や街の画廊で展覧会を開いて作品を買っていただくのが仕事です。具体的には画家〜問屋(画廊)〜百貨店〜お客様といった流れですから、僕は画廊さんに作品を渡すまでが仕事です。時には百貨店からの依頼で個展の会場に行かなくてはいけない時もありますが、基本的には家で絵を描いている生活です。

近年長引く不況のあおりで「絵でも買おうか」というゆとりをもつかたも減っているので、なかなか思うように売れません。するとどうなるか?というと展覧会の回数が増えるわけです。今年などは数えてみたら個展が10回です。ほぼ毎月のペースです。この他に多人数の作家によるグループ展がこの何倍かあります。こちらは画廊さんが、勝手に企画していちいち教えてくれないケースが普通で、たまたま何も知らずに入った画廊で自分の作品がならんでいるなんて事があるわけです。これらの展覧会の締め切りに追われ、自由業とは名ばかりの不自由業といったところです。僕の場合、これに加え固定収入欲しさに引き受けた、大学やカルチャーの講師の仕事もあり、まさしく(貧乏暇なし)といった感じです。

なんとなく画家のイメージが変わってきたんじゃないでしょうか?「ベレー帽にワイングラス片手に、気がむくまま優雅に好きな絵を描いている」そんなふうに思ってませんでした?

こう書くと、なんと夢がないと思われるかもしれませんが、作品の中だけは自由です。

お客さんの顔色をうかがう事もないですし、画廊も何も言いません。まさに自由業です。

なかなか満足のゆく物はできませんが、それでもたまに「これ、ええんちゃう?」という物ができたりするとヤミつきです。こうして30年以上も絵を描くハメになっているワケです。

ふりかえれば、こうなったのもすべて星陵高校の美術室が始まりです。あそこで絵を描くという毒に侵されたような気がします。あそこの卒業生で何人か美術の世界の第一線で活躍している方がいらっしゃるので、きっとあの教室の壁や天井にウィルスみたいなものがいて、ときどき人に感染症を起こすんでしょうね。なにせ古い校舎でしたから・・・

もうひとり美術室に巣食っていたのが、西沢先生です。先ほど絵を描くことは自由だと書きましたが、自由は(自らをゆるす)と書きます。ことば通りで、自分がこれでよし、と思えるまで描かなくてはなりません。西沢先生という方は、こうしろ・ああしろといった指導はほとんどされない先生でした。たとえばデッサンをするとき、まず形態をとります、そのときモチーフを視る角度が少しでも違うと上手く形態がとれません。たったそれだけのことに気が付くのに一年半かかりました。教えてもらえば数分ですみますし、あたりまえのセオリーです。大変な無駄のようにも思えるのですが、他人から教えられるのではなく自分で気が付いてゆくことが、大切なのです。

今でも作品をつくるとき、自分がこれでよし、と思えるには自分が築いてきたセオリーによって決めています。他人とは違うセオリーで判断するので個性のある作品が産まれます。そのセオリーの第一号が、(見る角度が違うと形態がとれない)という発見であったように思います。

西沢先生がなにもしてくれない先生のようにも聞こえますが、決してそんなことはありません。僕はよく授業をさぼっては美術室で絵を描いていたのですが、ある時そのことが、少々問題になったことがありました。その時には随分と擁護して下さったようです。絵を描く場所と時間を与えて下さったのだと思います。僕もおじさんになると良くわかりますが、なかなか心憎い先生です。

新しい校舎になり20年くらいになりますでしょうか。今の美術室にはどんなものが巣食っているのでしょうか?

宣伝してよろしいでしょうか・・・

今年の春に沖縄の恩納村にホテルモントレーがオープンしました。そこのロビーに130号の大作を2点おさめさせて頂きました。お近くに行かれましたら、ぜひご覧になってください。

個展の情報はホームページにでています。よろしければご高覧ください。
http://milnda.com/horiisatoshi/index.html