「星陵、私の原点」久保 範敏(高19)

19回生の卒業年度は1967年です。大学受験失敗、二度の浪人生活を経て英語学校へ入り英会話を収得しました。世の中は大学紛争やらあいつぐ旅客機事故などがあって騒然としていた時期です。英語学校は講師が全員外人という当時としては特殊な環境で毎日午前中は英語漬けでした。2年間通いました。途中1970年の大阪万博が有ったので半年休学して万博で仕事をしました。スカンジナビア館のレストランでウェイターとして働いたのですが、ここでもスタッフはスカンジナビアの人達。私の人生経験の中で貴重な経験となります。

万博を終えて英語学校に復学して半年、レストランのマネージャーのツテでデンマークに行って働かないかという話が進んでいた時に、星陵の先輩の口利きで日本の機械専門商社に就職することとなってしまいました。どこに人生の岐路があるのか判らないものです。私の両親にとっては東証二部上場(当時)とはいえちゃんとした会社。『冒険はやめてそろそろ地に足を着けてよ』という母の懇願を無視出来ず、目出たく就職。東京産業という会社に入りました。1971年のことです。その後紆余曲折があり1993年ニューヨーク駐在員を拝命し2月16日に赴任しました。事件の起こる10日前のことであります。前駐在員の出迎えを受けて勇躍JFK空港に降り立ちました。あこがれのアメリカ、子供の頃から憧れていた海外生活がここに始まる、という嬉しさでいっぱいでありました。事務所はワールド・トレード・センターの第一ビル、即ち「One World Trade Center」(以下WTCと略)であります。郊外に社宅を決めるまでの1ヶ月間はマンハッタンのホテル住まい。ホテルからワールド・トレード・センターへ地下鉄で通勤し、前駐在員と毎日引き継ぎ打ち合わせを行います。これだけでも結構刺激的でありました。

これからお話する事件は皆様ご存知の2001年の「911」テロのことではありません。1993年に同じテロリスト達がWTCを狙った最初の爆破テロのことであります。

運命の1993年2月26日、何時もの通り引き継ぎ打ち合わせを終えて12時過ぎ『さあ昼飯に行くか』と前駐在員が立ち上がり『ちょっと待ってよ、小便してくるわ』と言って部屋を出ました。「ったく、早く行かないと地下の食堂がいっぱいになってしまうじゃないか」とイライラして秘書と話をしておりました。時に12時17分、下から床を突き上げるような振動が来ました。ドンッ!という音が聞こえたような気がします。「なあんだよ、ニューヨークにも地震があるじゃないの」と私、『こんなこと私も初めてですわ』と秘書、「こりゃ直下型だな」二人でそんな悠長なことを言いながら窓際に行って下を見てビックリ。ウェストサイド・ストリートにあるWTC用駐車場ランプウェイから爆風で飛ばされた灰色の煙が吹き出しており、歩行者が走り回っております。そこへ例の前駐在員がトイレから戻って来て『なんだい?今の振動は?地震か?』とのんきに我々と同じようなことを言う。「ちょっと見て下さいよ、下を」と窓の外を見る様に促すと『ええ?、、、ボイラーでも爆発したんかな?』。私は日本から持って来ていたコンパクトカメラで何枚かの写真を撮りました(写真参照)。向かい側のビルは「ワールド・ファイナンシャル・センター」です。

日付をアメリカモードにしていなかったので「2月27日」の焼き込みがありますが日本時間、アメリカ時間で2月26日であります。この時は知るよしも有りませんでしたが、爆破のために地下で6人が亡くなっております。後日現場を見たら地下4階分の床が見事に爆風で吹っ飛んでおりました。直径20〜30メーターの大穴が開いておりました。爆薬に使ったケミカル臭もした。もし前駐在員の『小便行ってくるわ』が無ければ、我々も丁度地下に降りていった時刻になるので、もろに爆発に遭遇したことになります。命拾いしておりました。人生の岐路、どこに有るのか判りません。その駐在員は今でも『どうだい!愚図も時にはいい事あるんだぜ!』と自賛するのであります。

暫くの間は館内放送でなにか状況を知らせてくれるだろうと事務所に居りました。館内放送無し。隣近所の事務所から沢山の人達が廊下に出て来る。『皆で避難しよう』ということになりました。その頃には下から黒い煙が立ち上って来ていて、かなり不安な状況になっていたのです。
非常階段はビルの内側にあり急な鉄製の階段が延々と続いております、廊下の非常口を開けると黒い煙がドッと吹き出す。マフラーでマスクをしました。冬だったので皆マフラーを巻いていたのです。こりゃヤバい、早く降りないと煙と炎に巻かれて死んでしまう、皆そう思っていました。既に上の階から降りて来る沢山の人の列。我々もそれに合流してノロノロと降ります。
その時にアメリカ人達の冷静さに私は驚きました。だれも『早く降りろ!』とか『グズグズするな!』というような怒号は聞こえてこず、イライラしながらも整然と降りてました。
私たちの事務所は11階にありWTC自体は101階の建物です。それが、6階くらいまで降りた時に下の方から歩みが止まって停止したのです。そうこうしているうちに非常灯が消えたりして恐怖が募りました。まだスマートフォンなど無い時代です、誰かが着けているタイメックスの腕時計の明かりだけが頼りでした。相変わらず煙が上がって来ているようです、息苦しくなって来ました。非常灯が再び点いた頃『ビルを出られない、非常口に鍵が掛かっていてドアが開かない』という情報が下から口コミで知らされてきました。その結果、夫々が自分の階に戻る事になって、我々は11階の一番広い事務所を借りているテナントにまとまって避難する事となり、救助を待つこととなりました。
こんなとき、自然に指導力を発揮する人が出てくるのです。まるで映画を地でいく光景が繰り広げられました。『私は今の職場の前に消防関係で働いていた、皆出来るだけ姿勢を低くしてくれ煙は上に行く、それと、息苦しくなっても外の空気を取り入れようとして窓ガラスを壊したりしないでくれ、風穴を開けると今ビルの中に充満している煙が一斉にその穴をめがけて流れてくるから却って危ない』等々、的確な指示をして『かならず消防は救助に来る、彼らは今外からビルに侵入する手段を講じている、信じてくれ、必ず来る』と皆を落ち着かせるのです。
私は私で、マフラーを通して入って来る煙の匂いから察して、下では火災は起きていないようだな、と推測しました。煙の匂いにケミカル臭が少なく炭素の匂い、炭の粉のような匂いを感じたからでした。(事実、あとで分かったことですが、地下で爆発したトラックは強烈な爆発力であったにもかかわらず、地下駐車場に留めてある乗用車のガソリンに引火させることには失敗したのでありました)廊下に通じるドアを閉めて皆座って待つ事となる。停電で薄暗い部屋の床を見つめたまま。
そんな中、テナントの女性職員が紙コップに水を入れて皆にふるまい始めます。こんな時に自然とこのような行動が出るということが私にはとても新鮮に写りました。これがアメリカ人なんか。
1時間たち2時間たち、救いは来ません。窓の外では小雪がちらついておりました。地上でから消防士がなにか叫んでおりました。窓ガラスに「HELP」のサインを貼ることにしました。ここに救助を待っている者がいるということを下に伝えたかったのであります。私は「L」の字を書いた。その後座り込んで流石に「これで俺の人生も終わりになるかもなあ」としんみりしたものです。よれて窓ガラスを手で叩く女性も出始めました。
約3時間後、突然廊下側のドアが開いて消防士が顔を出しました。皆、安堵のため息、そして拍手。再び非常階段をゾロゾロとおりる。100階くらいからハイヒールで降りて来てふらふらしている女性もおります。下からは重装備の消防士が続々と登ってきます。私はこの時ほど消防の黄色い「制服」というものが頼もしく感じたことは有りません。すれ違う消防隊員の顔を見るたびに「Thank you」と声を掛けずにはおれないし、笑顔でThumbs upを交わすのです。(貼付写真は1階ロビーに降りた前駐在員と外に出て心からホッとした彼と秘書であります)

外に出た時に消防車が何十台も来ておりました。こんな大量の消防車の群れは見た事もありません。壮観でした。外に出てから近くの日本料理屋に入って休憩しました。女将が親切におしぼりや手ぬぐいをだしてくれました。マフラーを取ってお互いに顔を見合わせて突如大笑い。三人とも鼻の穴の下に黒い墨で描いたようなちょびひげがあったのです。炭素の粉を4時間くらい吸ったり吐いたりしていたので鼻の穴の下に黒炭の線が出来たのでした。不細工でした。経験してみないと分からない。脱出出来たという安堵感がどっと押し寄せて来た瞬間でした。

1993年のこのテロ事件については今となってはご記憶の人は少ないと思います。テロの後WTCは入館手続きが嫌というほど厳重になって、爆発物を持ち込むなどということは不可能になりました。駐車場の入り口には国防省にしか装備されていないという鋼鉄製ガードプレートが設置されました。これじゃテロリストも手がでないだろう、と誰もが思っていた。

しかし、地上が駄目なら空からやろうや、という悪知恵。まさか旅客機ごと突っ込むことを考えだして実行に移す悪魔がいたとは。想像も出来ないことでした。テロを考えだした連中は人間ではありません、人の姿をした悪魔です。アラーの思し召しなどという「神」を都合の良い道具に使った詐欺師です。実行犯で死んでいった若者達も同じ詐欺師に騙された犠牲者といえるでしょう。

2001年の9月11日の時点で私はまだ同じニューヨーク駐在員でありました。幸いにもその日に限ってパリに出張しており難を逃れました。フランスの企業に我が社との業務提携を申し込みに行っていたのであります。たまたま相手方の社長が9月11日しか空いていないというので前の金曜日に急遽渡航したのでありました。留守を預かる秘書はからくも脱出に成功して(一通り彼女の脱出劇を語ると本が出来てしまうようなストーリーであります)ビル崩壊前に逃げ生きのびてくれました。私はといえば秘書の安否の確認に全力を上げた後は(彼女は機転を利かせて私の自宅に彼女の友達経由無事を知らせてくれたのでした)パリで足止めを食って五日間切歯扼腕の日々でありました。崩壊画面を見た時に私の脳裏に去来するのは、前述の1993年テロの際に勇敢に階段を昇って行った消防士達の姿でありました。あの時と同じ様に彼らは救助の為に危険に立ち向かって行ったに相違有りません。沢山の人を救ったでしょう。そして、その最中にビルの崩壊が始まりました。犠牲者の中に一般人と混じって消防士が多いのはその為です。私は今でも消防士・EMS隊員の姿を見ると1993年のWTCの非常階段ですれ違った彼らの姿とダブリます。本当に彼らはいい顔をしておりました。

そして、日本では阪神大震災に続き東日本大震災が起こりました。そこでも沢山の我々の知らない救出劇・惨劇があったものと思います。人間の人生って、どこに岐路があるのか分からない、こころからそう思います。

それと、私は、予期せぬ大惨事が起こった時にこそ人の真髄が見えて来る、ということを身を以て学びました。1993年・2001年のニューヨークでのテロを経験して、遠く離れた東京に居る会社役員という立派な肩書きの人達が思いもかけない愚かな発言をしたり、行動をしたりするのを目の当たりにしました。阪神でも東日本でも、同じことがありましたね、日本の政治の要にならなければいけない立派な(はずの)人達の狼狽ぶりを目の当たりにしました。学校の試験では何処かで見たような設問に答えれば良い、でも災難は何時どんな形で降掛って来るかまったく予期出来ない。シナリオの無い試練です。これにしっかりと対応できる能力は「その人の持っている赤裸々な人間性」からしか出て来ません。

自分自身はそんな時に恥ずかしくない行動を取れるだろうか、常に心に問いかけながらいま60歳中盤を過ごしております。

私は現在ニュージャージー州のリッジウッドという町に住んでいます。1993年にこちらへ赴任して数年経った頃家族ともども永住権を取りました。所謂グリーンカードというやつです。2002年に日本へ呼び戻されたので逆単身赴任して6年間独身生活。2008年に目出たく定年退職。迷う事無くアメリカへ戻りました。37年間の商社マン生活でした。

このような私の人生の原点は「星陵」にあります。長崎県佐世保市上原で昭和23年に生まれ昭和31年に灘に移り住んでから神戸で育ちました。摩耶小学校・鷹取中学校と神戸を東にいったり西にいったり、ずっと神戸。その中でも我が星陵は特別です。

新入生の時、何の気負いも無く「コーラス部」に入りました。いやむしろ、コーラス部なんていうのは「おなごのやることやろ」と目一杯偏見をもっていたのに何故入ったのか、不思議。多分勧誘に来た同級生が可愛かったからだろうなあ。そんな処でしょうね男なんて。入部はしたものの意に反して『お前はベースを歌え』と言われてがっかりしたパート分け。本当はテナーで目立ちたかったのに。自分の意見をはっきり言えない性格。そんな私に転機が訪れたのは二年生の時。「指揮者」に指名されたことからであります。委細はさておき、沢山の素敵な同期に恵まれて19回生は一丸となってクラブ活動に邁進しました。顧問の田村嘉崇先生の「和」を重んじる指導・姿勢も良かった。先輩方にも好い方が多かったし後輩にも恵まれました。身勝手な私を育ててくれたのはコーラス部員そのものでした。会議を開いては意見が食い違う、それを意地になって打ち負かそうと無い知恵を絞る、まるでディベートをやってるような日々でありました。 そして同時に音楽がどんどん好きになっていった。特に黒人霊歌に魅入られて合唱の深みへはまり込んでしまいました。それと、この場を御借りして是非とも申し上げたいのは、コーラス部の皆に感謝をしています、ということ。若気の至りとはいえ、いい気になって好き勝手な事を言って(その当時のクラブ日誌を読み返してみると自分自身に嫌悪感を覚えます)指揮をしていました。皆本当に心をひとつにして歌ってくれました、すまん、そしてありがとう皆さん、本当にありがとう。

60歳の定年を過ぎてから始めたトロンボーンもその頃のブラバンが羨ましくて仕方なかった思いが燠火のように心に残っていたからです。今、トロンボーンにハマって4年目、近所のポップスオーケストラで第二トロンボーンを吹いてます。
(写真では左上で濃紺のサンバイザーをかぶっているのが私)

もちろん、歌は続けております。行きつけのカトリック教会の聖歌隊に入って、「テナー」を歌っております。

下の写真は3年12組の時のものです。誰かが「番傘」を購入するルートを見つけてきてクラスの有志が(こんなの有志って言っていいのかな)買いました。これも楽しい星陵の思い出の一こまです。男だけの教室で面白かった。担任は浅井力先生。現在多少健康をくずされておりますがお元気。たまにクラス会(力会という)でお会いすると相変わらずの巻き舌で捲し立てられます。Live long先生。

そして、私はこの11月17日に「神戸マラソン」に出場することにしました。それなりの歳(10月で65歳)ですから走りは適当(死なない程度に走ります)、望みは須磨から舞子にかけての国道をしっかり走りたいという一心であります。青春の日々、月見山の自宅から垂水まで山陽電鉄で通い、毎日見ていた思い出多い国道を走ってみたい。ささやかなノスタルジー。ここ半年のトレーニングで少なくとも舞子までは行ける自信が出来ました。問題は復路。42キロのゴールまで制限時間内に走れればこれ以上の悦びはありません。

元気な19回生、久保範敏

2013年9月11日