「星陵新聞の生い立ち」花田 昌三(高2)

私は昭和25年(1950)卒業の星陵2回生です。昭和19年(1944)当時の西須磨国民学校(現在の小学校)を卒業し、兵庫県立神戸第四中学校に入学しましたが、昭和20年(1945)敗戦を機に制定された新しい学校制度で現在の星陵高校に編入され昭和25年(1950)に卒業しました。同窓会事務局から星陵新聞の生い立ちについてまとめて欲しいと依頼を頂きましたので、新聞部創部当時を振り返ってみようと思います。既に60年を超える時の移りがあり、私の記憶も薄らいでいる部分が多いのですが、できるだけ正確に書くよう文を進めて参りたいと思います。

(Ⅰ)新聞発行の目的

「星陵新聞」の前身である「神戸四中新聞」が創刊されたのは昭和22年(1947)9月です。

「神戸四中新聞」創刊の目的は当時騒がれていた新制高校への昇格問題を正しく調べ報道すること、そして全学一致してこの問題に対していこうということでした。創刊号一面トップは「岐路に立つ母校 楽観を許さず」と昇格問題を取り上げており、神戸四中が新制高校に昇格できるかどうか関係当局で議論が分かれていたことを示しています。

神戸四中の高校昇格が問題になった背景には敗戦後の教育制度の改革があります。昭和22年(1947)3月、教育基本法、学校教育法が公布され、これまでの制度(小学校6年・中学校4年・高等学校3年・大学3年)が廃止され、新しく所謂6・3・3・4制に学制が変ったために、従来の中学はそのまま新制度の中学として残るか、或いは新制度での高校に昇格するかという問題が起こってきたのです。

神戸四中の高校昇格がすんなりと決まらず問題になった大きな原因は当時校舎とよばれる建物がなく、教育に必要ないろんな校具類も無かったことです。

神戸四中は昭和16年(1941)に開校されましたが、校舎はなく神戸市生田区の北長狭国民学校の校舎を借りて第1回の入学式が執り行われました。校舎は垂水区高丸に建設するべく鍬入れ式が11月20日に行われています。

昭和19年(1944)4月に完成した校舎に移転しましたが、翌年の1月に海軍経理学校に校舎を接収されたものですから南須磨国民学校に移転、6月の神戸大空襲ですべてを焼失、須磨浦国民学校に移転、そして終戦を迎えました。

海軍経理学校の解体で垂水の校舎に戻ることが出来たのですが、翌21年2月3日に原因不明の失火により校舎は全焼してしまいました。

新制度での高校昇格が問題になった時、神戸四中は応急に建てられたお粗末なバラック教室で授業を行っていたのです。学校としては存続していましたが、校舎もなく必要な校具も揃っていない状態であったことが新制高校への昇格を難しくしていたのです。

(Ⅱ)私の記憶

私は入学試験を北長狭小学校で受けましたが、入学式は垂水に建設中の校舎でした。教室の壁・天井が未完成で、隣の教室の授業が良く聞こえたことを覚えています。当時、私は神戸市須磨区に住んでいましたので学校には国鉄(現在のJR)須磨駅から垂水駅まで省線電車(JR)で行き、垂水駅からは徒歩で学校に通っていました。

軍国主義の色が濃くなっていた時代でしたから、何人かで列を作り歩いたもので途中で上級生や先生に出会うといっせいに「歩調とれ!」とリーダーが号令をかけ「頭右!」と敬礼をしたものでした。また、何事も連帯責任を問われ、クラスの一人が何か問題を起こすとクラス全員の責任として全員が制裁(ビンタ)を受けたり、石ころだらけの運動場に正座させられたりしたものです。

海軍経理学校に校舎が接収され、南須磨国民学校へ、そして終戦を迎えた須磨浦国民学校への移転、そこでの授業などについてはところどころ不確かなこともありますが、清原良正先生(チンカイ)の英語、林義一先生(カッパ)の数学、小林末夫先生(ラッキョウ)の世界史、岸田貫一郎先生(キシカン)の社会、石村茂先生(ダニ)の化学、竹崎先生(タケヤン)の数学、藤原勇一先生(ノンチ)の歴史、平野元樹先生(カマキリ)の数学などなど、とても懐かしく思いだされます。劣悪な環境にもめげず、みんな一生懸命でした。

(Ⅲ)新聞部の発足

このような状況下にあって、教職員と足並みを合わせ一致団結して活動し新制高校への昇格を訴え、昇格を確実にするべく新聞の発行を決意して立ち上がったのが当時の文芸部で活躍していた4年生(四中3)の牧原孝雄、増田要人、池田三郎、大西多一、岡見裕輔さんたちです。

そして、創刊号が1947年9月に発刊されました(何日かは不明です)。創刊号1面トップ記事のタイトルは大きな活字で次のように書かれています。

新制高等学校昇格問題
岐路に立つ母校
楽観を許さず
自粛奮起せよ

内容は当時の兵庫県知事 岸田幸雄氏と県教育部長 堀隆三氏へのインタビューで紙面の大部分が占められています。インタビューは何れも牧原さと大西さんが、知事、教育部長夫々のご自宅を訪問して行われています。インタビューの結果報告として大きな活字で次のように書かれています。

前途なほ光明あり
師弟愛と友愛の結合により
精神的内容を充實せん

校舎や校具などモノは無く、バラックの仮校舎だけではあるが理想的な師弟関係・友人関係を維持しており、それを更に深めてゆくことで、モノ不足を補ってなお余りある昇格への資格を充実してゆこうと力強く主張しています。

(Ⅳ)昇格決定に次いで問題になった統合問題

昭和23年(1948)1月17日、高校への昇格が決まり、校名は「兵庫県立第四高等学校」となりましたが、後に県の指導で校名にナンバーをつけないことになり校名は「兵庫県立垂水高等学校」と改名されました。昇格が出来るかどうか岐路に立っていた神戸四中の昇格を確実にしたのは教職員・父兄会・生徒が一致協力して運動したからでありますが、神戸四中新聞が大きな役割を果たしたことは間違いないと確信しています。

高校昇格が決まった後、次に「男女共学」「綜合高校」を目指すという文部省の指導要領が問題になりました。生徒の間では「男女共学」に強い関心があり新聞部としてもこの問題を新聞紙上に取り上げ、討論会を開催し報道しています。

これらの問題は紆余曲折を経て、結局は県立第一商業学校(県商)との合併が決まり、校名も「兵庫県立星陵高校」となり、バラック校舎は霞ケ丘中学に譲り県商の校舎に移ったのでした。 昭和23年(1958)5月24日のことでした。

この間の不安定な状況が当時の新聞の題字に表れております。その都度、変更されているのです。

題字の変遷:
(A)神戸四中新聞 22・9・- 創刊号~ 23・3・14 第7号
(B)神戸四高新聞 23・4・30 第1号~ 23・9・30 第5号
(C)垂水高校新聞 23・10・30 第6号
(D)星陵高校新聞 23・11・30 第7号~ 24・3・5 第11号
(E)星陵高校新聞 24・4・20 第1号
(F)星陵新聞   24・5・24 第2号~第3号
(G)星陵新聞   24・7・19 第4号~
※(G)は鍋井克行画伯の作です。

(Ⅴ)星陵新聞のその後

高校への昇格という大きな目的が達成された後、星陵新聞はどうなったか。

新聞創刊の立役者であった牧原さんたち星陵1回生と私たち2回生と3回生が一緒になって新聞づくりに知恵と力を出し合いました。新聞部の部室は正面玄関を入って直ぐ左にあった細長く狭い部屋でしたが、部員の皆さんは先輩後輩の区別もなく、明るく楽しい集まりを持っていました。

確かな記憶があるわけではありませんが、編集会議とは言っても皆が自由に意見を出し合ってどんな内容にするかを決めていたように思います。会議が長引いて夕方になり薄暗くなった星ケ丘の緩やかに曲がった道を遠くに黒く浮かんでいた淡路島を見ながら家路に着くこともしばしばでした。

新聞は8月を除いて毎月発行されています。

内容は先ず当然のことですが、学内のニュースです。それも、全クラスに1名ずつ新聞部連絡員を設け(当時の中田校長のご提案)新聞部員だけでは収集できない情報・意見を広く学内から集めるユニークな制度もありました。

更に、学内の問題に限らず、多様な時事問題を取り上げています。その一部をご紹介しますとユネスコ、国際連合、マーシャル案(戦後経済復興に関する)、経済力集中排除法、労働組合―労働力調整法・労働基準法、教育委員会 などなどです。また、関係者に直接インタビューして、自分たちの目線で問題を理解し報道しています。ユネスコに関してはユネスコ運動協会準備会長田村享氏を訪ね詳しく話を聞いていますし、前進座の座長である河原崎長十郎さんには「座員全員が一致して共産党に入党した理由」など当時の労働問題とともに取り上げてもいます。

在校生のみならず先輩、またPTAの皆さんからの寄稿も多く掲載されており、新聞が学内だけでなく広く親しまれ読まれていたことを示しています。

新聞には付き物ともいえる広告ですが、創刊号から3号まで広告は掲載されていません。 4号(22・12・20)に初めて書店(3社)、文具店(1)、運動具店(1)からの広告が掲載されています。広告料は如何ほどであったか全く記憶にありません。その後、時計店、制服取扱店、写真店、復興住宅KKの広告が掲載されています。私も広告をお願いする為に垂水の商店街を何度か歩いた記憶があります。

新聞の印刷についても触れておきます。創刊号から昭和23年(1948)7月までは田中印刷出版株式会社にお世話になりましたが、その後神戸新聞の夕刊紙「神港新聞」社が印刷を引き受けていただくことになり、昭和23年(1948)9月30日号から活字が所謂新聞活字(真四角ではなく長方形)になり、新聞らしくなりました。

(Ⅵ)新聞部の仲間たち

昭和24年(1949)3月 牧原さん達、新聞部を生み育てていただいた先輩の皆さんが卒業され、4月から私が新聞部の責任者としての大役を仰せつかりましたが、部員数は2回生・3回生に新入4回生からの入部者も加えて11名(普通科8商業科3)であったと新聞に記載されています。 私の記憶にある新聞部はもっと大所帯ですから、4月以降に入部された方が多かったのではないでしょうか。新聞部部員の名簿がありませんので確認できないことが大変残念です。

しかし、一緒に苦楽を共にした皆さんとの写真が一枚、手元のアルバムにあります。私たち2回生が卒業を控えた昭和25年(1950)2月18日に正面玄関で撮影されたものです。小林末夫先生、岸田貫一郎先生、財家繁幸先生を交えて、2・3・4回生が集まっています。既に故人になられた方もおられますし、この写真に入っていない方もおられますが、いい機会ですから写真に写っている皆さんのお名前を書き当時を偲ばせていただきたいと思います。

(写真に向かって左から)
鳥山香織・佐野英雄・浜谷園・小野周三・古久保佳子
吉川美千子・森真一・松本美喜子・近藤美恵子・野上幸彦
黒田一也・森田英世・小林先生・柏木茂・桜井博
嵯峨正光・宮崎克省・花田昌三・岸田先生・岩井貞雄
鹿島栄一郎・財家先生・北村晃一・中下登司彦・伊原康夫
兼吉淳二・忽那錦吾・武谷武・上野豊

新聞部は私から桜井博君(2回)、佐野英雄君(3回)、伊原康雄君(3回)、武谷武君(4回)に引き継がれて行きました。