「千夜一夜物語(3)」風穴 武志(高6)

1968年4月、会社を代表して中東へ。

大阪出発後ベイルート経由でアラビア半島を南下、ネジド砂漠の上空から眺める大地はベイジュ色の大地、僅かな起伏、だが一本の草木もない。

ジッダ、デュバイ、クウェイト、ベイルート、ベンガジ、トリポリ、ヨルダン、イラク、中東ドサ廻りの四ヶ月旅の第一歩がジィッダでした。

大変な地域を担当したものだと決意も新たにする間もなく空港着。
通関が大変、ス-ツケ-スふたつを広げられ全ての説明、検査の目的は、アルコール、ポルノ写真、雑誌(反王政)等、小一時間は要した。

これでホテルまでタクシ-行けば、蒸し風呂の中のような環境から解放されると、ヤレやれと思いもつかの間、驚きはタクシ-料金がメ-タ-制でなく行先を言って値段の交渉であった。

勘弁してよ!寛ぐまもなくベドウィンと初商談!

当時ジッダで英語が分かる従業員がいるホテルはカンダラパレスとレッドシーパレスだけ、私がアラビア語が使えないから『カンダラパレス』に会社が決めてくれました。一流ホテルだから従業員はスーダン人でほぼ完璧な英語を使い日常生活には何も不都合なことなかったのですが、これでは現地語を覚えられない。

一方商談は、二週間たって取引先が通訳を帯同して来てくれるがサウジの商人と渡り合うには通訳が間に入ったのでは商談が纏まりにくい、また誤解を生むと判断して二週間目に下町にある行商人が良く使う三流ホテルバハウディンに変更、無論従業員はレヴェルの低いイエメン人、エチオピア人、英語を理解するのはリセプションのスタッフ独りだけ。

この判断が私の日常・商業アラビア語のマスターに大いに役立ちました。

その結果三回目の出張(1971)でほぼ通訳なしで商談が可能になりました。
参考まで、エジプト、シリアは文学作品も多数あり語彙も豊富ですが、サウジは表現・言論の自由が無いので進化していないのだと思います。

こんな笑い話もありました、ある金曜日取引先の親子と郊外へドライブに、途中オアシスがあり、日本で見たことない木があり、なんと言う名の木だと質問すると、答えて”シャジャル”、別の種類の木を質問すると、やはり”シャジャル”、次に花の種類を聴くと答えて”ワルダ”、別の花を指さしても”ワルダ”、後日出張員仲間と笑い話になりました。

後日分かった事だが、政府はサウジ原住民ベドゥイン(サバクの民)を都会化させる為、高層集合住宅に住み、職業としてタクシードライバーを選ばせた。
一方役所はサバクの民を保護する為、帰化人には許可しなかった。

従ってタクシードライバーはオリジナルサウジアラビア人でありプライドは高かったが、もともと砂漠の商人であったので彼等との料金の交渉は楽しかった。

ただ学校教育を受けてなかったので名前を書けない者が殆ど役所で書類に名前を書く代わりに拇印を押している。
料金は利用目的により異なり、日常的な事なら安く、目出度い事は高い。下町へ買い物なら安く飛行場なら高い。

因みに、砂漠の民用の高層住宅は10数棟は旧飛行場の近くにあり1988年まで入居者の気配は感じられなかった。
サウジの友人達から聴いた話は、エレヴェーター、コンクリートの建物は彼らの生活慣習に合わなかったそうでした。

ジッダの気候風土

4月~10月気温36から46℃、湿度70~80%、蒸し風呂になる。外出時エァコンは点けぱなし、商談の為店に行く取引先の建屋は空調設備なく電卓ない時代でカバンから算盤を出すと湿度の為、球が動かなくなったこと再々でした。
当時の大阪御堂筋線の地下鉄車中と似た湿度と言えばお分かりかと、・・

アラビア服の効用

インド系帰化人Mr.Siraj1971年

Mr.Assaggaf、サウジ人1970年

毎日取引先を訪ね歩くだけで午前、午後、夜、三回外出の度にシャツを変えるのでは何枚用意しても不経済極まりない。
更にホテルの洗濯が実に大雑把で二・三回でボタンが取れてしまう 。
そこで彼らの選択方法に慣れたアラビア服に変えた結果、思いがけない効果があり70年より常用する事になりました。

仕事で、地元の人と同じ服装である為、小売り、卸やで商品の売り値買い値の情報が取りやすくなった、日常生活では、スークで買物の際、現地人と変わりなく正当な値段で買物がしやすくなり、タクシーも妥当な値段で交渉でき、地元の人たちと同じ環境で生活を楽しめるようになりました。

一般市民、役所の従業員、タクシ-ドライヴァ-にアラビア語、英語、をしゃべる日本人として珍しがられイスラム文化を勉強していると言えば大変尊敬されもした。
アラビア服は気候風土に適しており、着てるだけで御上りさんと見られないで帰化人として見られたようでした。

以上

郷に入れば郷に従う。一番プレッシャーのない生活を送る方法です。