「星陵―苦しみながら希望を持ち続けた一つの時代のこと」河村恒徳(四中4/高2)

「星陵―苦しみながら希望を持ち続けた一つの時代のこと」河村恒徳 (四中4/高2)

昨年10月に、櫻井博君が82歳でこの世を去った。2007年には瑞宝小綬章を受けて叙勲されるなど目立つ存在だったが、心身共に頑健な彼が、あっけなく旅立った。今回花田君から投稿依頼され、本来なら応じることの無い私がその気になったのは、先に逝った櫻井君に『俺はもう書けないからお前が書け』と思念の中で促されたからではないかと思う。櫻井君が書き残したいと思っていたものと中身はずいぶん違うと思うが、私なりに、四中4回、星陵2回の生徒たちの視点で感じ留めたものはこうであろうと考える星陵の情景を描いてみたい。

昭和24年(1949)4月、星陵高校は、歓喜に満ちていた。前年4月、新制高校への昇格(=学校の存続)が決定し、県商との統合もなって、今回初めて、史上初、女子生徒を迎えることになったのである。なんと軟弱なと言うことなかれ。それまでの吾人の歩みは実に苦難不運に満ちたものであった。

昭和19年(1944)、その年から学区制が敷かれ、神戸市西部小学生のナンバースクール入学は、四中と決まっていた。入試は、北長狭校舎、面接だけで、それも数人一緒。合格後の授業は垂水の新校舎。木造で堂々としたものではなかった。

苦難は上級生から始まった。川崎航空機明石工場などへの勤労動員である。空襲で命を落とす先輩もでてきた。我々も、高射砲陣地構築。疎開させる机、椅子などの運搬。燃料薪の運搬。など、勝たんがための勤労奉仕を不定期に続けた。前後して海軍経理学校が、経専、四中、県商を接収、移ってきたため、われわれは南須磨高等小学校を間借り。

空襲が激しくなり、神戸は昭和20年(1945)3月17日夜と6月5日昼の大空襲で大被害、6月5日は級友も、焼夷弾の直撃で亡くなり、学校まで焼けてしまった。当直の先生一人、生徒二人は、沈着冷静な判断のおかげで、無事だった。3月17日に家を焼かれた私は、6月5日には被害を免れ、翌日、学校までたどり着いたが、途中亡くなって放置された人を何体も目撃した。空襲直後は、立ったまま黒焦げになる人などすさまじいものだったらしい。結構軍国少年だった我々世代の誰もが『戦争はやってはならない』と心に深く思うに到ったのは、戦後悲惨で非情な戦争の実態が明らかになったこともあるがこのような実体験にも基づく。2ヶ月あまりの間、今度は須磨浦学園を間借り、そこで終戦となった。戦時中の受難は、どの学校も星陵ほどではないが似たような所があった。が、ここから先は星陵だけが更に違った。

昭和21年(1946)の出火による校舎の丸焼けである。なぜ出火したのか、全く原因不明、上級生は県商を間借り、我々は応急仮校舎で、授業を始めたが、そこで出てきたのが昭和22年(1947)の新学制改革。従来、中学校は5年、女学校は4年、これを3年に統一して義務化、新制中学とする。元からある中学校女学校は昇格して新制高校になるか、新制中学にとどまるか。校舎のない四中が昇格するにはどれほど難しい立場にあるか、そこで立ち上がったのが、新聞部。というより、学校存亡の瀬戸際にある四中が、あらゆる叡智を結集して一大存続運動を起こした、その中心であり、実際に活動するタレント集団として新聞部が創られ、主として牧原孝雄さんなど四中3回生が、昇格存続のために県に理解を求める活動を展開、発行したのが四中新聞、これが大きな成果をもたらした。その新聞部の中に櫻井君がそして花田君が又顧問に岸田先生小林先生がいらした。

櫻井君が生きておれば、ここで秘話が出てくる所だが、花田君にお任せするとして。

私は、それ以前から軟式テニス部員で、新聞とは関係がなかった。が新聞部の人たちとは仲が良く、昭和23年(1948)秋の文化祭、この年、県商との統合が決まっていて講堂が使えるため、岸田先生ご指導の下、櫻井、花田、兼吉らが中心となって、新聞部で演劇をやることになり、(「7人の騎士」「山に入った詩人」)、テニス部の私もその中に加わった。なぜ私が加わったのか、貰ったのは少年役なので、声が甲高かったからであろう。

さて、昭和24年4月、最高学年になった私も軟式テニス部長として、部員募集の演説をした。演説は苦手で、いつも、しどろもどろなのが、このときは不思議に無事終わった。そのせいか50名を越す部員となり、が、初仕事は、コート作り。垂水の海岸まで砂を取りに行ったり、テニスもしないで楽な作業でもなかったのに、みんな文句も言わずにやってくれた。

この年の文化祭は、すごいことになった。演劇部はまだなかったので、新聞部、文芸部その他などが競い合って演じた。新聞部の演し物は、「ロビンのおじいさん」「子猫」「魔王」。軟式テニス部から女優陣をスカウト、新聞部の女優ともどもなかなかの才能を発揮、暗くなるまで練習を続けた。どのグループも名だたる女優がいて、妍を競った。誰もみんな懸命だった。この初めての女生徒達は、注目の的となった。3年生、2年生、1年生男生徒はそれぞれ、卒業した四中星陵の先輩たちも関心を持って、何かといえば学校まで足を運んだ。牧原孝雄先輩が学校職員として残っていたからでもあるが、それくらい、この年の、もう二度と起こらない、数少ない最初の女生徒の存在は躍動の源であった。

草創期の四中は、苦難不運の連続であったが、渦中の我々は、希望を失わなかった。信頼している先生、生徒会、新聞部のやってることだから、うまくいくはず、と思っていた。

難局の中で生まれた独特の連帯感が、何人かの優れた活動する賢者を選び、全校がそれを後押しし、課題を克服し、躍動の年があって、その後の星陵につながった貴重な一つの時代であった、と、振り返って、感銘を新たにするものである。

幾十星霜を経た今、当時の女優陣との交流は続いている。また、小林末夫先生は、101歳で岡山にてご健在、施設での人気者らしい。メデタシメデタシ。  (完)