みなさまこんにちは
後輩に薦められてはみたものの「何を書こうか」と思案していたところ
ふと3月27日朝日新聞の天声人語に目がとまりました。
『同じことのようでいて、順番しだいで印象が変わるから言葉はこわい。
たとえば人を評して「実直だが、仕事が遅い」と「仕事は遅いが、実直だ」ではずいぶん違う。
いい言葉で締めてもらえば株は上がるし、悪い言葉なら逆になる。
ある意味、人の一生も似ている。
< 略 >
シエークスピアの劇にこんなせりふがあった。
「終わりよければすべてよし、終わりこそつねに王冠です」(小田島雄志訳)
< 略 >』
で、そうやなあ・・わたしはまだまだ生きるつもりやけど、このへんで悩み多く多感だった。
星陵生の誇りにかけて、これからの悔いない仕上げのために、いままでを振り返りまとめてみよう、と思いました。
わたしは星陵高校16回生、池内悦子(岩井)です。
これはわたしのあまりにも個人的なミニミニヒストリーです。
星陵に入学してすぐ美術部入部
顧問は宝塚歌劇団美術部から来た中西和夫先生
部室は一階西側の教室を半分にしきった部屋でした。
高校に入った時、すでに美大に行こうと決めていました。
わたしの自我意識のめばえは「絵描きになりたい」と同じ意味がありました。
年末、アルバイトをして油絵の具を買いました。
高校時代は典型的な「文科系」
校庭をぶらぶら漂い歩く(そんな子いっぱいいた!)
ちょっと元気なときは教室「アカシアの雨がやむときイーこのままア死んでしまいたい~」と大声でうたっていました。
受験のため週3回、神戸駅北、楠公さん隣の神戸市立婦人会館地下で石膏デッサンをはじめました。
これは受験の直前まで続けました。
当時の1期校(いまでいう前期―京都美大―現芸大)受験、受験番号87、1次試験突破!2次試験へ、
しかし不合格!!わたしは浪人も下宿も許されなかったので2期校の大阪学芸大学美術学科を受験
落ちる気はまったくしなかったけれど、たぶん1期校を落ちてきた「教育系」「美大系」のおちこぼれ所みたいで、その志の低さにものすごくがっかりしました。
ま、「学大」のよさは十分その後の人生の糧になったと思いますが
大学時代は「しっかりした表現のための授業」への欠乏感に悩まされました。
「なんとかしたい」と二紀会の宮地孝氏に師事しました。
高校時代といえばおおげさですが「人生いかに生くべきか」に悶々とする暗い日々が苦しくおもいだされます。
そのときわたしは同じくひとりの画学生が好きでした。
独り相撲の恋でした。
夫より数倍も好きでした(!笑)
題名は「虚城」―姫路城にスケッチに行った時の絵を作品にしました。
わたしの情念に気づかず、明るくふるまう男へのやるせない思いをおもいきりこめて描いたように記憶しています。
神戸二紀に出品しましたが小笠原誠次氏から「才がある」という評価をもらいました。
(ホントヨ!)
絵描きなどとんでもないと、父に美大受験を反対されたけれど、許しを得た条件は「教師になってま・じ・め・に働きながら絵も描く」でした。
図工専科として神戸市立小学校に赴任
2006年退職まで38年間ずーっと図工専科でした。
5つの学校に勤めました。
たくさんの子どもたちにかかわりました。
でも、わたしの問題意識は「自分の表現をすること」でした。
「そうよ!こんなふうに描くんだよ」と宮地先生にいわれました(これもホント!)
この作品を観ると「なんや、今とちっとも変わってへんやん」と思う・・
時代は60年後半から70年代へー激動の真っ只中!
1972年結婚。9年後出産、その間、全く絵筆をとることはありませんでした。
「行為」こそ「真の表現」だ!そんな時代でした。
☆ 1981年男児誕生(のち星陵52回生)まさにわたしの第2次歴史的転換点!!となりました。
絵本を読み聞かせるうち、またわたしの「絵が描きたい、今すぐ描きたい!」
忘れようとしても忘れることのできなかった「絵が描きたい」という思いがふつふつと沸きあがるのを抑えることができませんでした。
育休から復帰したわたしは絵を描こうと、授業の合間、子どもが眠ってから、と少しの時間も惜しむように描きました。
30代なかば、学校の仕事も、子育ても
そしてなによりも「絵を描くこと」すべてが充実していていっしょうけんめいでした。
その頃は月1作のペースで制作しました
1994年11月それらの作品の個展をひらきました。
阪神大震災の前年のことでした。
1995年 阪神淡路大震災起こる
住む家もえのぐもなにもかもなくなりました。
同居していた母も傷つきました。
母を西脇の実家に6ヶ月あずけ、わたしたちは星陵同級生の家を借してもらいました。
(同窓生はありがたい!)
8月―50歳になったわたしたち16回生が当番の星陵高校同窓会に参加しました。
あくる年5月、元の所に帰ってきました。
垂水での仮住まいで、念願だった絵本制作のはなしがきました。
あらたにアクリル絵の具をそろえました。
校正するまもなく翌年の震災1周年出版に間に合わせるというあわただしさ
すじがきは一つのエピソードがもとになっていますが、ひとつひとつの場面はみんなわたしが体験したほんとうのことです。
母はすっかり弱ってしまい介護の日がつづきました。
元の家にもどって2回目のお正月を迎えようとする直前、自宅でなくなりました。
しばらくボーゼンとしていたわたしは、またまた「絵が描きたい!今すぐ描きたい!」というきもちが突きあがってくるのを覚えました。
そんな時、そばにあったのが和紙だったのです。和紙には墨がにあいました。
2000年―わたしの第3次転換点でした
これまでの画業のなかでも、もっともおおきな転換点といえます。
なぜか墨の濃淡や和紙のふかい可能性に魅せられ、これこそ「わたしを表現できる」と感じました。
2001年からおおきなコンクールに応募していきました。
☆こんな「あそび」もする余裕がでてきました
阪神大震災追悼「 I LOVE KOBE展」に毎年新作を出品
教職38年さいごの秋―学校でわたしが制作した行事のたて看板
阪神大震災はわたしの画業にとっても影響が大だった。
いまの表現のきっかけになったのも震災です。
そして東北の大地震と大津波
阪神大震災のあと、東北福島から「三春の瀧桜」の幼木が数本贈られてきました。
その1本がわたしの家の前にみごとに咲いていました。
墨での表現の一方で、身近に語りかけてくれる愛おしいものたちを描くことはなんと楽しいことでしょうか。
わたしのもうひとつのライフワークとなりました。
さいごに・・
晩年のピカソに「あなたのいままでの作品でいちばんよくできたのはどれか」と聞いたとき
彼は「Next One!」とこたえたそうです。
一つのことを追い求めるのに「女の人生」は疎外事情が多すぎませんか?
女流画家たちはみんなたくさんの困難をのりこえて画業をつらぬいたと思います。
わたしをそういう人たちと並べることは恐れ多いですが、こころいきは負けないで、最後の最後までずっとずっと描きたいとおもいます。
自由な校風、ゆたかな思い溢れるわが星陵生の名にかけて!!