「ロシアより、東播の空を想う。」坂本 航司(高39)

39回生(1987年卒)、坂本航司と申します。自分は3人兄弟の長男ですが、ウチの3兄弟はなんと全員星陵出身。妹は41回生、弟は43回生です。さらに、妹の旦那も星陵で妹の同級生。なので、盆や正月に実家で4人が揃うと、星陵トークでついつい盛り上がってしまいます。身近に星陵を感じ続けられるという意味で、なんとも恵まれた環境ですね。

自分は、小学校時代を須磨区のニュータウンで過ごし、高校時代に垂水区側のニュータウンに引っ越して、今でも実家はそこにあります。高校時代は、なんとなく入った硬式テニス部をすぐに止めてしまい、ずっと帰宅部だったので、同じクラスになった人以外とは余りお付き合いがありませんでした。学校内でのことで何か特筆すべきことを強いてあげるとすれば、1年生の2学期以降、3年生までの全学期で「室長」職を務めたことぐらいでしょうか。その関係で、2年生の時の同級生を中心に、今でもあだ名として「室長(しっちょー)」と呼ばれています。(室長が通り名になっている人、何人かいましたよね。)

自分は、大学を出るまで神戸の実家にいて、その後、東京が本社の損害保険会社に就職しました。最初の勤務地は広島。そこで4年を過ごした後、スペイン語研修生としてバルセロナに行き、以後、東京→メキシコシティ→東京→アムステルダムと、地球反復横とびのような転勤を経て、2012年にアムスから横移動でモスクワに来て、こちらで丸2年になります。入社して22年になりますが、そのうち13年、社歴の半分以上が海外での勤務です。

自分は、中学1年の時に、父の仕事の関係で、中東の島国バハレーンに行き、そこで2年を過ごしました。今でこそ、ワールドカップ予選等である程度知名度のあるバハレーンですが、当時は誰もそんな国の存在を知りませんでした。現地ではアメリカンスクールに行き、慣れない英語で苦しみ、漸くそれにも慣れてきた中3の春に、須磨区の元いた家に戻ってきました。1年間で中学校3年分の勉強をするのはなかなか大変でしたが(当時はまだ兵庫方式9教科受験の時代でしたし)、なんとかそれを乗り越えて入ったのが星陵高校でした。

バイカル湖

高校生活でのシーンは、今でもありありと思いだすことが出来ます。戦前からあったコの字型の校舎。(正面は東京の皇居の方を向いていたとか。)その南側最上階にあった1年1組の教室から見下ろす明石海峡の眺め。白いカーテンをなびかせる海からの風。古い桜の木々。夕陽の方向に向かって2段を成す広大なグラウンド。水色の体育ジャージ。

実家の辺りも含めて、神戸市西部の空は独特ですね。あそこに帰ると、ああ、なんて広い空なんだと思います。どこか、空気の色が違う。それが、奥行きなのか、広がりなのか、その風景の一部に淡路や四国の島影があるからなのか、わからない。でもそれは、海外で見る空とも、東京で見る空とも全く違うように思います。

同級生の田所さんも書いていましたが、星陵で自分が一番好きだった授業は、小西正雄先生の地理でした。毎回授業にタイトルがあるんですよね。「貧しさからの出発」とか、「ホワンジさんの悩み」とか。テーマは、エネルギー問題、人口問題、自然破壊問題等。斬新で、地球規模で、今考えてもすごい内容だったと思います。先生自身が現場を訪れて集めた情報と写真も魅力的でした。敦煌や、ロプノール、カイバー峠等、自分も、いつかそういうところに行ってみたいと、思いをはせていました。

将来海外で仕事をしたいとは、その頃からずっと思っていました。でも、父の海外勤務は自分が中学生だった時の1回きりで、自分は、全く普通の日本の高校生でした。高校時代、自分が“手に触れる”ことが出来る海外として感じていたのは、その小西先生の授業と、夜中の12時に聞いていたJALのFM番組「ジェットストリーム」ぐらいでした。

浪人を経て入った神戸大学では馬術部に入り、帰宅部だった高校時代とは打って変わって、とにかく部活に学生生活の全てを費やしました。何しろ馬はお金がかかる。当時、部には14,5頭の馬がいて、自分たちのトラックとトラクターも持っていたので、年間のクラブの運営費は相当な額に上りました。

今でも、学生時代に馬術をやっていたというと「リッチですねェ」と言われることがよくありますが、なんのなんの。ただの国立大学で、どこかから特別な補助金があるわけでもないので、必要なお金は全て自分たちが馬のためのバイトで稼ぐのです。おまけに、交代で男子部員2名が毎晩馬小屋の泊り番をやっていたので、それにも時間を取られる。お馬さんたちは冬眠しないので、シーズンオフはないし、正月もない。一言でいえば馬の奴隷です。

時はバブルの真っ盛りで、同世代の学生たちは、白のトヨタレビンに赤のホイールを履かせて、リアウインドウにレイトンハウスのロゴを貼って、テニスサークルや合コンに明け暮れ、華やかな生活を送っていましたが、自分はただただ、馬小屋で汗と藁と埃にまみれていました。(大分ひがみが入ってますね。(^^;))当然、海外旅行なんて行っている余裕は全くありませんでした。まぁでも、それが自分の大学時代のかけがえのない思い出です。高校時代に手にすることが出来なかったものを、そこで取り返したようにも思います。

ボリショイ劇場

高校在学時代は、一旦勉強に対する興味をなくし、成績も下がるところまで下がって浪人する羽目になってしまいましたが、海外で働きたいという夢はどうしても捨てられず、それをもってかろうじて大学受験を乗り越えたような気がします。思えば、10代の頃から、海外駐在員としての今の自分を構成する部品の一つ一つを、そういう前提のもとに作り上げてきた、今振り返るとそんな風に感じます。

広島勤務時代も、公私ともに海外とはほぼ全く縁がありませんでした。ただ、いつか海外赴任をさせて欲しいとはずっと言い続けていました。

自分は、15歳でバハレーンから日本に戻ってからの青春期をそんな風に過ごしました。だから、入社5年目の時に、スペイン語研修生として再び海外に出られたときは本当に嬉しかった。それは、長い間倉庫の奥にしまってあった飛行機を再び大空に飛ばすような、本当に素晴らしい経験でした。

1年の語学研修を経て日本に帰国した自分は、ほどなく結婚しました。見合いのような形での縁でしたが、妻も神戸の人間です。結婚して2年、まだ新婚気分も抜けきらなかった時にメキシコ駐在員に任命され、その地で7年を過ごしました。辞令をもらった時に妻のおなかの中にいた長男は、先にメキシコに行っていた自分と生後5か月で合流し、結局小学校にあがるまで向こうにいました。メキシコでは長女も生まれたので、家族としての我々の創業の地は、彼の地メキシコであったともいえます。

メキシコから本店に呼び戻されて日本に住んだ期間は1年11か月。本当にあっというまでした。2009年の夏に、我々はアムステルダムに引っ越し、そこで3年を過ごしました。アムスでの生活は、子供たちにとっても妻にとっても非常に充実したものだったと思います。その後、アムスでやっていた仕事の縁で、自分は、2012年の夏に家族とともにモスクワに移り、今に至ります。赴任国としては4か国目、在住国としては、バハレーンを含め5か国目になりますが、ロシアは本当に奥の深い国です。公私ともに大変な国ですが、他にはないダイナミズムがこの国にはあります。

メキシコ、アムス、モスクワ時代を通して、少し無理をしてでもやってきたことがあります。それは、毎年必ず神戸に帰ることです。メキシコ時代は、かわいい盛りだった子供たちを、少しでも両家の両親に見せてやりたいというのが主な動機だったろうと思います。しかし、アムスにいたころから、そこにはもっと深い意味があると感じるようになりました。

夏の赤の広場

自分は、かつて小西先生の授業で見せてもらった写真のように、海外のその地に足を踏み入れて、その地の空気を吸って、その地の人々と共に仕事をしたいと思い、そうやって、スペイン、メキシコ、オランダ、ロシアと点々としてきました。でもそれは、ものすごく強い遠心力を伴うものです。どこかにしっかり繋がっていないと、宇宙の果てまで放り出されてしまいそうな気がする。別の言い方をすれば、どこかにしっかり繋がっているという安心があるからこそ、その大きな遠心力に身を委ねることが出来る、ということでもあります。

自分が繋がっている先は、言うまでもなく、明石海峡と大阪湾が見下ろせる東播のあの風景であり、少年期・青春期の14年を過ごした神戸の街です。もし自分が、その期間も海外を転々としながら過ごしていたとしたら、自分の人生は全く違ったものになったと思います。

昨年の春、10数年海外を連れ回した子供たちをモスクワから神戸に返し、自分は、単身赴任になりました。理由は、彼らにも、しっかりと繋がる先を、ここが自分の帰属する場所だと思える土地を、持ってもらいたかったからです。

高校生の頃、あの星陵台のグランドから見える空の向こうに、いつか海外で働いている自分を思い描いていましたが、その同じ時空のこちら側で、今の自分があの頃の自分と向き合っているような不思議な感覚を、最近富に感じています。

そんな折、この星陵のOBサイトに寄稿をしないかとのお話しをいただいたことには、何か不思議な縁を感じます。海外での経験を書いてくれと言われ、自分も最初はそのつもりだったのに、気が付けば故郷に対する郷愁の念ばかり書いてしまったように思います。

空は晴れたり我が上に。
海は凪ぎたり我が下に。

自分は、あの豊かな風景の土地を故郷とし、あの大らかな校風の高校を母校とした。そこに自分の心の錨(いかり)がある。それは、世界のあちこちを転々とし、そこでの問題を解決していくことを生業としている自分にとって、かけがえのない財産です。そのご縁に、改めて感謝しています。

凍結したヴォルガ河にて