「星陵高校 〜オトンとボクと、時々、イモウト〜」丹治 雅人(高36)

皆さんこんにちは。36回生の丹治と申します。

あまりない名前なので、先輩がたにおいてはピンと来られた方もいるかもしれません。
というのも、私の父は1965年から私が入学する前の年、1980年まで16年間、
物理の教師として星陵高校で働いていましたので、私自身より父を知っている方のほうがはるかに多いと思います。

昭和43年教職員集合写真(前列左から2人目)

そんなこともあって、私の星陵高校の思い出というと、入学からでなくもっとさかのぼることになります。

星陵高校にて(3歳のころ)

小さなころは、高校のプールで水泳部が練習する横で水遊びをしていました。妹の浮き輪も使って浮かんでいた結果、妹が浮き輪なしでプールに入り、そのまま沈んでいったことを覚えています。むっちゃ父には怒られましたが。あとは1階の暗い廊下や、体育教官室など印象に残っています。このあたりが一番古い高校の思い出でしょうか。

小学校のころ、もう確認するすべもなくたしか放送部や水泳部だったと思いますが、部活単位でのキャンプや日本海での海水浴に、自分の友達も誘ってちょくちょく連れて行ってもらいました。

千種川でキャンプ

冬には、私の高校時代にもあった栂池高原でのスキー合宿、これでスキーを覚えました。
どれぐらい使っているんでしょうか、参加者おそろいのえんじ色のヤッケとゼッケン。もちろん私も着ました。

真ん中が私、小学校4年のころ。

自分が高校の時。同じヤッケ。

中学になると高校だけでなく、父とどこかに行くというようなこともなくなりましたが、
刷り込みといいますか、高校受験の際には、星陵へ行くのが当たり前、自然なことだと考えていたように思います。沈んでしまった妹もそう思ったのかわかりませんが、私の2年後に星陵に入学しました。妹は美術部から、今は造形関係の仕事をしています。

高校生活の一番の思い出といえば、やはり水泳部です。ほんとによく泳ぎました。
極めつけは夏合宿、初日と最終日は1万メートル、間は毎日2万メートル、6日で10万メートル泳ぎました。泳いでも泳いでも2万メートルはなかなか終わりません。夜も工事用のライトでターンをする壁だけ照らしながら、3000m泳で1日が終わるというような毎日でした。それでも練習終わってから夜の校舎で肝試しとか、どれだけ元気だったんでしょうか。
大学でも水泳部だったのですが、後にも先にもこんなに泳いだことはありませんでした。

あとは、やはり星陵生として例にもれず、部活の合間を縫って、星陵祭に向けてバンドもやっていました。水泳部や、クラスの仲間と組んだのですが、かけ持ちをしたりするぐらいで、バンド数が多いため星陵祭出演のためにオーディションがあったり、教室の後ろにドラムセットが置いてあるというような学校はそうそうないように思います。

高校卒業して一浪の後、地方の大学に行ったこともあり、同窓生と会うことも少なくなりました。
就職で地元に戻ってはきましたが、すっかり疎遠となっていました。

7年前ごろ、同期会をやっているということを聞いたのですが、高校の頃のこともすっかり忘れており、最初はあまり行く気はありませんでしたが、当時一緒にバンドしていた仲間が直接連絡をくれ、行ってみる気になりました。同期ながらはじめましてという人も多かったのですが、話をしているうちにいろいろ思い出してきました。

次の年の同期会には、ライブハウスで高校当時のメンバーでの演奏をすることができ、最高のひと時を過ごすことができました。

高校当時は接点がなかった人たちとも、改めて星陵卒業した同期としてちょくちょく飲みに行ったりする機会も増え、普段の多くの時間を過ごす会社などのメンバーとまた違った関係のなか、いろいろな刺激をもらっています。

2年ほど前に、毎年8月に星陵同窓会の総会・懇親会を、50歳になる回生が幹事として取りまとめるということを知りました。

この活動を通じ、星陵高校を卒業したというひとつの共通点だけで先輩方や、後輩たちともいろいろなつながりができました。これらの関係をきっかけに最近走り始めまして、来年2月にはフルマラソンにも挑戦予定で、この年になってもいろいろ新しいことができるもんだなと感じています。

今、幹事回生として来年の総会・懇親会への準備を進めていますが、同期や、先輩方から教えてもらった、星陵高校を通じた人と人とのつながりといったものをさらに次の人たちへもつなげていけたらと思っています。