「栄枯盛衰・・・日本の産業構造の変化とともに・・・」太田 順道(高30)

皆様はじめまして(もしくはこんにちは)、30回生の太田順道です。リレー連載コラムの「LINK星陵」への執筆依頼を頂きましたので、私自身の社会生活を振り返ってみたいと思います。

高校時代に持っていた漠然とした将来のイメージは弁護士になることでした。理由は社会的ステータスが高くカッコ良い職業に思えたからです(これは社会人になってから結構大変であることを理解しました)。しかし父親から「腕に職をつけなさい。大学なら工学部」と言われ、母親から「家は貧乏だから大学は自宅から通える近隣の国公立しか行かせない」と言われ、当然ながら浪人も出来ず・塾にも通えず、高校2年の秋ぐらいから隣にあった商大の図書館で一人黙々と受験勉強をしていました。私の高校生活のイメージは2年生の夏までは楽しく明るい生活でしたが、その後は受験に追われる苦学生の感じでした。それでも大学の進路は主体性なく、やはりカッコ良い?エンジニアとして当時の花形であった電子工学の道を選び、修士課程まで進んだ後に関西の電器メーカに就職して半導体関係の研究開発の業務に就きました。

化合物半導体の結晶をつくる装置
MBE(Molecular Beam Epitaxy)という装置で当時は日本に2台しかなく
1台3億円

最初に携わったのは化合物半導体を用いたトランジスタ、具体的には「ヘテロ接合バイポーラトランジスタ(以下HBTと略す)」という高周波応用で使う半導体の開発でした。産業の米と言われる半導体のほとんどは、シリコン(Si)の単一元素基板にそれ以外の元素をごく微量に入れ込んで作られます。一方化合物半導体は2つ以上の元素を用いた半導体の総称で、Siでは困難な「光る特性」や「早い応答」を得ることが出来ます。2014年のノーベル物理学賞の赤﨑教授(名城大学)・天野教授(名古屋大学)・中村教授(カリフォルニア大学)は化合物半導体の一つである窒化ガリウム(GaN)を用いたLED(「光る特性」の応用)実用化の功績で受賞されました。私の場合は同じような材料である砒化ガリウム(GaAs)を用いて高周波トランジスタ(「早い応答」の応用で、その名の通り無線通信などの高い周波数域で用いられる特殊なトランジスタ)の一つであるHBTの開発をしていたということです。

クレーマー教授と研究所のHBT開発プロジェクトメンバー
真ん中で調子にのっているのが私
(クレーマー教授は2000年にノーベル物理学賞を受賞)

化合物半導体・高周波の業界はシリコン半導体・LSIの業界にくらべて狭いので、世界中の研究開発者同士も知己が多く、私でも赤崎教授や中村教授ともお会いしお話する機会がありました。さらに言えば、このHBTの開発においては研究所の基幹プロジェクトでもあったため、この技術の世界的権威であるクレーマー教授(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)の直接の指導を約3年間に渡って受けることができ、私自身がその後に高周波デバイス技術者として生きていくための専門スキルのコア部分を形成することができました。ちなみにクレーマー教授は2000年のノーベル物理学賞を受賞されています。またこの窒化ガリウムに続く次世代の半導体として炭化シリコン(SiC)もあります。この世界的権威もかつて京都大学で教鞭を取られていた松波先生であり、もしまた将来に日本からのノーベル物理学賞がでるならば、松波先生が受賞されるのではないかと思っています。

退官パーティにて松波教授と

さてそのHBTの原型ができ、これから事業化を考えようというときに研究所の再編成があり、上司も勤務地も変更になりました。それとほぼ同じタイミングで通信業界にも大きな変動が起きました。それはアメリカのモトローラ社から「マイクロタック」という超小型の移動通信端末(今で言う携帯電話)が実用化されたことです。それまでの移動通信端末で十分な通話時間のあったものは、容積約2リットルであり(自動車用のバッテリーに受話器が付いたものを想像してください)、社用車や一部のお金持ちが車に積むような使い方で携帯電話とは言わず自動車電話と呼んでいました。これは通信に使う高周波トランジスタ(当時は未だSiを使っていた)を用いた送信アンプの消費電力が大きく、通信端末全体のほとんどの電力を消費してしまっていたからです。その後にNTTから実用化された小型モデルでも500ccのペットボトルぐらいの大きさでかつ通話時間も短く、まだまだポケットに入れられるようなものではありませんでした。一方の「マイクロタック」は通話時間は短いものの、重さ約300グラムで実際に携帯可能なものでした。このインパクトは大きく、NTTは巻き返しを図るべく国内通信機器メーカに檄を飛ばし、同等以上(容積150cc/重さ250グラム)の通信端末の早急なる実用化を求めたのでした。当然その要請は私達のグループ会社にもなされ、副社長をリーダーとする全社プロジェクトが結成されました。半導体の基本設計からスタートさせるプロジェクトでは3年~5年の開発期間を設けるのが一般的であった時代に、たった2年間の開発期間での実用化スケジュールが組まれました。私自身は当時有していた高周波トランジスタのスキルを活かすというという名目で、最もコアとなる通信用の送信アンプでの基本設計の変更(Si半導体からGaAs半導体に変えて送信アンプを作る)の開発担当を仰せつかったのでした。

開発そのものは凄惨を極めました。材料的に安定なSiと違い、化合物は「ダーティな材料」と言われ、非常に不安定なため再現性も悪かったのです。歩留(良品数/全体数の比率)が0%になることも常でした。さらに今回はかなりハードルの高い目標となっていたために、2年間の内にまともに出来たのは「全く無く」、このままでは研究所が解散させられるとばかりに、未だ主任職の私に当時の研究所長からも直接のプレッシャーが飛んで来ていたほどです。毎日睡眠時間は4~5時間程度、休日出勤はもちろん徹夜もしょっちゅうといった、今ならブラック企業とも言われかねない2年間でした。その間に体重はストレス太り+元々の肥満体型でもあったので、80Kg近くまで増えてしまいました。

GaAsを用いた送信アンプ
大きさは1円玉ぐらいで3千円
今は米粒ぐらいで30円

プロジェクトの期限がいよいよ3ヶ月後に迫って来た時ですら、まともな特性のトランジスタは出来ていませんでした。その時ふと、半導体を作る工程の一部に高温で半導体を熱処理する工程があるのですが、それが問題ではないかと思いつきました。ところが当時は全社プロジェクトでもあるが故に、全ての活動は開発部長の許可が無ければ試作すらできません。私はこれが問題と思うと声を挙げたのですが、もう時間的余裕も無い中で、そのような回り道は到底許してもらえる状況ではありませんでした。そこで「どうせ出来なかったら、担当者として責任を取らされるのだから」ということで、研究所長に直談判し「私の考えを取るか、開発部長のやり方を取るか」と迫りました。時間は残されていません。研究所長の即断で開発部長はプロジェクトリーダのポジションを外され、私の意見が採用されました。量産スタートまで残り2ヶ月です。そしてその最初の試作品がようやく要望の特性を出すことが出来ました。やはり熱処理工程に課題があったわけです。そしてその後も幾多の課題も乗り越えて、ようやく事業化に辿り着きました。それがNTTドコモから発売された携帯電話の端緒となった「ムーバ」です。

NTTドコモから発売されたムーバ
従来製品の3分の1のサイズ

さらに通信方式のデジタル化に伴い、この流れは「デジタルムーバ」へと続き、携帯電話の大きな流れに繋がって行きました。この間、この高周波の事業は年間数億円の販売から10年足らずで数百億円へと100倍にも成長し、私自身も会社から社長表彰や事業部長表彰など数多くを受賞しました。さらにHBTなどの高周波トランジスタ技術の学会発表や論文掲載により、工学博士号も取得することが出来ました。いろいろと大変ではあったのですが、逆に研究者としては最も華やかだった時期だと思います。この間も開発方針の合わなかった上司と丁々発止のやり取りをしてしまい、最初の件を含めて2勝1敗?でした(笑)。まあしかしその後もずっとポジションを保っていたので、実質は全勝だったのかも知れません。

ドイツ出張時で地方の大学都市
時々息抜き

しかし「万事塞翁が馬」、この流れは2000年に起こったITバブルの崩壊で一転してしまいます。当時、半導体業界は日本がアメリカに伍してシェアを持っており、さらに高周波応用ではそのほとんどのシェアを日本メーカが有していました。アメリカは軍事用としての高周波応用の着手は早かったのですが、民生用としての大量生産対応に乗り遅れていたためです。しかしITバブル崩壊後は一気に変わりアメリカメーカが台頭してきます。私は今でもITバブルとその崩壊は、アメリカの国全体が一体となって、日本からイニシアチブを取り戻すための大掛かりな仕掛けであったと本気で思っています。いずれにせよ我々日本メーカはその仕掛けに負けてしまい、ITバブル期には10社以上あった高周波トランジスタメーカも、順次撤退あるいは合併・売却を繰り返し、その10年後には、民生用で提供できるメーカは数社程度になってしまいました。またその事業規模もほとんどが半分未満になっています。

息抜き;エルサレム嘆きの壁
ユダヤ教の男性は帽子必須

私自身はこの間にエンジニアからマネージャに役割が変っており、マネージャになってからは、目減りし続けるビジネスを如何に復活させるかに粉骨していました。1990年代は技術者として国際学会発表などで世界中を飛び回っていましたが、2000年以降はビジネス構築のため特に欧米のカスタマーを回っていました。しかしながらこの大勢には抗し得ず、さらに2010年以降はアジア圏(中国・韓国・台湾)の台頭により年々ビジネス環境は厳しくなり、残念ながらこの産業での日本での復興は非常に困難になっています。ちなみに先ほどのLEDのビジネスも、一部の先進的応用(自動車用ヘッドライトなど)を除き、一般照明用や有色LEDはそのほとんどがアジア圏での生産になっています。つまりLEDであれ高周波であれ基礎技術の多くは日本で生まれ育ったのですが、今はその産業はデジタルAV分野と同じく海外、特にアジア圏に移っているのが現状です。

私は入社して30年になりました。過去を振り返るとエンジニアであった最初の15年間は飛ぶ鳥を落とす勢いで過ごしてきました。そしてITバブル崩壊以降の15年間はマネージャとして事業規模の維持に勤めて来ましたが、決して成功とは言えませんでした。唯一の成果(名残り?)は、現在の日本の携帯電話(今はガラケー:ガラパゴスのような特異な進化を遂げた日本独自の仕様の携帯電話)に対する、唯一の日本のサプライヤーであるということです。今でもガラケーの送信アンプのほとんどは私のメンバーが開発したものが搭載されています。これもしかし自虐的に言うと、新規成長分野に転地し損なったということになるのかもしれません。

ノーベル賞の事例にもあるように、日本の基礎技術力はアメリカにも決して劣りません。さらに生産技術力に至っては、アジア圏の台頭を許すも、未だに世界一であると思っています。しかし日本は日本であるが故に独自性が強く、グローバルスタンダードの構築では非常に不利な状況です。これは今後も急に変ることは無いでしょう。もしこのコラムを在学生の皆さんが読まれることがあるのでしたら、仕事を選ぶに当たっての私からの助言は「今に捕らわれず、将来に賭けろ」と言うことです。私は自分の息子(当時は星陵高校在学中)にも同じことを言いました。「日本が好きなら日本で生き残る産業を選べ」と。冒頭に書いたように私はあまり考えもせず、当時の花形であった電子工学・半導体産業分野を選んだのでした。当時は半導体が日本から無くなって行くとは誰も考え得なかった状況でした。しかし現状は結果論とはいえ、この選択は決して正しい道であったとは言えなかったと思います。ではどうすれば良かったのでしょうか・・・。

・・・だからタイトルに戻るのです、「栄枯盛衰」と。

つまり今現在で華やかな産業は自分の半生の間に衰退が始まるということです。一生の仕事を選ぶに当たっては、もし日本で暮らすなら少子高齢化の時代でも日本国内に十分需要のある産業とは何か?そうでない職業なら欧米もしくはアジア・中近東に行く覚悟があるか?ということを考えなければいけない時代になっているということです。高周波分野での一つの事例を紹介させて頂きましたが、同じようにデジタルAVを含む産業構造の変化で、不遇を託っている技術者は日本国内に非常に数多くいます。ここまで多いと国策でもカバーしきれません。そのため優秀な技術人材がアジア圏を中心に海外に流出しています。星陵高校の皆さんは非常に優秀な人々だと思っています。是非とも自分を自分で守るために自らしっかり考えて、将来の設計を立ててください。

今、私の会社全体としては、遅まきながら民生用から産業・車載用にシフトをしています。当然ながら高周波分野も産業・車載用途は数多くあります。しかしそれには時間がかかりますので私自身が直接関与するビジネスというよりはむしろ、私の後進が主体的に構築していくビジネスであろうと思います。これからは私自身の経験を次の世代にしっかり伝え日本が新しい産業分野で再復活できるべく、加えてこれまで培った技術がさらに社会に貢献できるための一助になればと思っている今日この頃です。