「海賊と呼ばれたい男」阿倉 和哉(高34)

34回生の阿倉和哉です。

現在、神戸でバイクやロボットの金属部品機械加工業を営んでいます。要は、鉄工所のおやじです。そんなおやじのベトナム進出奮闘記にしばしお付き合いを。

高校時代は平々凡々な男子でした。同窓会で同級生だった三宅君に「阿倉?そんな奴おったかな・・・」と言われる始末。三宅、絶対に許さないから (笑)

思い出と言えば国語の答案用紙一杯に赤点万歳と書いて、こっぴどく叱られたくらい。理系に進んだのも数学や理科が得意だったからでなく国語と社会科が苦手だったから。自分のやりたい事がみえてなかったんですよ。

鉄工所を営んでいるといっても父親の会社を継いでの事。大学で電気工学を学び電機メーカーに8年ほど技術系でお世話になりましたが、社長をやってみたくなり父親の会社に転職しました。実の息子という事で鳴り物入りでの入社でしたが、全くの畑違いで素人同然。10年ほど現場で油まみれになりようやく社長になりました。

ベトナム進出を決めたのは2年ほど前。日本の技術を海外で生かしたいから!なんて言うかっこいい理由は進出理由の一部分。国内にある古い機械を海外に持っていき空いたスペースに新規事業用設備を導入したいのが本音です。時代と共に消費も新興国へと移り変わり、日本の役割も高度なものへと変わっています。適者生存、中小企業にとって技術力の停滞は死を意味します。そして技術を培うには日本は最適なところです。海外進出というより海外放出ですかね。失敗しても古い設備だし、まぁ良いかって。そんな邪まな思いは、この後チョイオーイ(ベトナム語で“なんてこった”)なトラブルの引き金となりました。

党書記との懇談会
日本企業は歓迎されるのだけれど・・・

いつでも撤退できる様にと工業団地外の工場と契約して昨年11月に日本から船便で機械を送ったのですが、あろうことか申請していた登記許可が下りなかったのです。コンサルタント(日本人)を通じ事前に投資局に認可確認して問題なかったのだけれど詰めが甘かった。実は、コンテナを送った数ヶ月前に法律が変わっていて工業団地外の工場は外国企業が登記出来なくなっていました。中国との海洋問題で関係が悪化し中国企業締め出し策との事、とんだとばっちりですが機械を積んだコンテナは船の上、文句を言っている場合じゃない。送り返す事も考えましたが現地企業と委託加工契約を結び生産してもらう事にしました。

彼らの協力でようやく問題解決

急遽、現地企業と契約書を交わし書類申請や通関書類を変更して何とか搬入できました。こういうことってベトナムだから出来るんでしょうか、なんとかなるもんですね。

這う這うの体でベトナム搬入

大げさですが、私には「海賊と呼ばれた男」(百田尚樹著)で危険を承知でイランにタンカーを送る状況と思いが被りました。スケールが違うし成果出てないので海賊と呼ばれたい男って事で許してください。

ティショット後に「チョイオーイ」とキャディ

挑戦はまだまだ続く・・・・。

一昨年の同窓会実行委員会をきっかけに34回生ゴルフ部を立ち上げました。今年の2月で24回目の開催を迎えました。ゴルフの後の反省会という飲み会や泊り掛けでの合宿など実行委員長退任後にゴルフを始めた黒木君をはじめ、私の名前を忘れていた三宅君達と楽しい時間を過ごしています。そして、私たちの最終目標は定年後ゴルフの聖地セントアンドリュースでプレイする事としています。ゴルフなしの単なる修学旅行という事になりません様に。

気の置けない連中とゴルフ
掛け替えない時間だ

サミュエル・ウルマン曰く、「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。」

青春はまだまだ続く・・・・。