「ミュージカルとの出逢いと思い出」中井 敬二(高28)

昨年だったと記憶しているが、卒業後30年近くを経て、久しぶりに母校星陵高等学校の門を潜った。
僕も所属していたコーラス部の後輩たちが上演する「美女と野獣」のコーチを依頼されたからだ。
依頼主は、僕の高校時代からの悪友?で現在は母校の音楽教諭を務める植村幸市君だった。

大阪音大の声学科を卒業後、一年間大阪市内の某女子高校の専任講師となった。
無論音楽の担当である。自慢にもならないが、僕に数学や英語など教えられるわけがない。
音楽とて心もとないものではあったが。そんな折、当時交際していた女性と一緒に観たのが、劇団四季のコーラスラインだった。大学生の頃、梅田コマ劇場で上演した「火の鳥」という、手塚治虫さんの作品に出演した。

クマソの男というのが僕の役で、妹役が当時の宝塚娘役のトップスターの方だった。この妹と恋仲になるのが、ヤマトからの使者の男性で、この人の出演している作品を観るということになり、「ウエストサイドストーリー 」、「ジーザス・クライスト・スーパースター」に次ぐ3作品目が、僕の運命を変えたといっても過言ではない「コーラスライン」だった。

僕はこの作品との出会いで、劇団四季の研究所オーディションを受験し、運よく合格した。
ちなみに当時の応募者が約600名、うち合格者(僕は19期生)は23名もいた。
尤もこの中から劇団四季に入団できたのはわずか6名で、うち2名は今も舞台俳優を続けている。
いずれも主役クラスである。ここでは名前を控えさせていただく。というのも、僕の劇団四季での15年間の歴史は、そのまま演劇の歴史であり、共演者たちとの歴史である。
今も現役で活躍されている多くの舞台俳優やミュージカル俳優(このような呼び名は日本固有のもので、アメリカやイギリスでは、俳優と名がつけば、歌もダンスもその素養に含まれることになっている)の方々がいらっしゃるので、ここで実名を文字にすることはいわゆるご法度と思うからだ。
(本音は、言いたい!喉元までその名がせりあがってきている…)
15年間の在籍で出演したステージが3000を超えれば、おのずと有名無名を問わず、
多くの共演者がいるに決まっている。これは心の財産であり、足かせにも成り得る。
実のところ今朝方も稽古中の夢を見た。これは珍しくもなんともなく、多いときには週のうち3、4度も見る。
そんな時は、決まってうなされ、鬱な気分での目覚めとなる。やったこともない「出トチリ」「出遅れ」
他にも衣装がなかったり、自分のやるべき役を別の誰かがやっていたり、あらゆるヴァリエーションで
僕を苛みにやってくる。何と恐ろしい夢の数々!マインドコントロールされている感じが、今もまだ残っている。今頃になって気づいたのだが、僕には舞台俳優は向いていなかったのかもしれない。

話を戻そう。後輩たちの演じる美女と野獣は、お世辞にも上手ではなかった。が、勘違いしないでもらいたい。
演技力とか、歌唱力を指して言っているのではない。それは形としては見えにくいものかもしれないのだが、いわゆるエモーション、あるいはパッションと言い換えてもよいだろうものが、彼らの中に、
わずかしか内包されていなかったからだ。懸命にはやっているのだが、その基になる感情・意志・意味などがなんだか曖昧模糊としている。演じることと歌うことはほとんど同義語だ。ミュージカルにおける楽曲の真ん中に位置するのは、楽譜ではなく、人の心情でなくてはならないのだが、アマチュアの方に共通しているのは、楽譜を眺めて「なんとなく」歌ってしまうという点だ。

言葉は単なる音ではなく、様々な想いであるはずが、その中身を深く追求することもなく、あるいは中途半端なまま表現するから、観客の心に届かないのだ。上手くやる必要などない。
へたくそで結構。でも心からほとばしる想いというものがないと、感動できない。
舞台人のミッションは感動を伝えることが全てだと、今も僕は信じてやまない。
またもや話がスライドしてしまったが、お許し願いたい。

自分の高校時代に話を転じることにする。僕はコーラス部以外にも、いくつかのクラブに所属していた。
結果、不真面目な部活動をやっていたらしい。「らしい」というのは、同窓会において、当時の部長をやっていた上田君からそう断言されたからだ。
記憶は美しく虚飾されるものだが、事実は曲げようもない?
高校生活は実に楽しかった。勉強はからきし出来なかった。入学すぐのテストでは学年480人中440番代の成績だった。3年間持ち上がりの担任をしてくださった田村先生から「次は頑張りや」と励まされた結果、2回目の試験は44位だった(と記憶している)やれるやん!との
自己評価はひたすらに甘く、以後は低空飛行のままだった。

当時は1日7食が普通だった。朝食べて家を出て、2限目終了辺りで食堂に行き饂飩かカレーを食べ、
昼はお弁当、6限目終了時には再び食堂へ。クラブの終わりには、喫茶店でスパゲティ何やらを食べ、
帰宅後は夕飯、そして真夜中には勉強の為の?夜食を食べていた。それでも太ることはなかった。
現在体重は90㎏ある。夢のような時代だった。このような怠惰な生活を送っていた私にも、
高3という受験期が訪れた訳だが、当然ながら進学できるような大学があるわけもない。
結果、好きだった音楽の道を目指そうと,選択肢のない中で、音大受験を決意した。

色々あったが、運良く音大にストレートで進学出来た。音楽への道が開けた次第である。
大学はお嬢様やお坊ちゃんが多く、僕のような下賤の人間が通うところではなかった。
それでもトレーニングウェアーにスリッパという姿で(時代錯誤?)、3年生の時分には
自治会のメンバーに名を連ねて、公欠ばかりの学生生活を送っていた。情けない話だ。
そんな最中前述したミュージカル「火の鳥」の公募があり、なんとなく受けたら、何故か受かった。
そして出演した。これが今の僕に繋がっていくきっかけだったと思う。

現在、僕には3人の息子がいる。幸いにも3人ともすくすくと成長してくれた。
大学進学や僕の仕事のことなどで必ずしも順風満帆ではなかったが、皆が健康なのは幸運だった。
偉そうなことは言えないが、彼らには自分の信じた道を切り開いてほしいと願うばかりだ。

今も音楽と深くかかわっている。大学や専門学校などでも教えているが、僕の人生ならではの「歌と演技」を通じて、何人かの弟子?に養って?もらっている。
ミュージカルとの出逢いは、人との出逢いであり、自分との出逢いだと信じて疑わない自分が頑固に居る。

昨年末12月15日に母が他界した。長患いだったので、不謹慎だと思わないわけではないが、
ちょっとホッとした気がしている。亡くなる前日の14日にお見舞いに行ったその数時間後のことだった。
きっと僕の顔を見るがために、苦しいのを我慢して待ってくれていたに違いない。
そう思うと有難さが身に染みる。一方で、父の苦労を思うと、自分の不甲斐なさはどこかに置いて、
これからの父には自由気ままな余生を送って欲しいと願っている。
この母の葬儀にはミュージカルCATSの「メモリー」をBGMに流していただいた。
四季に入って4年目辺りであったか、大阪初演(これが13か月に及ぶロングランだった)を観劇の後に、僕は衣装メイクのままで、母や甥っ子たちと一緒に写真を撮った。この写真は今も大事に保管している。
如何にも嬉しそうに笑っている母の顔が印象的だ。

「メモリー」はキリスト教に仏教の輪廻転生の考え方を融合させたこの作品の原作者であるT・S・エリオットの思想が色濃く反映している。母もきっとこの地球のどこかに再生して、新しい両親の元、天使のような笑顔の赤ん坊となって生きていると信じたい。
現在の僕があるのは、音楽、中でもミュージカルとの出逢いがあったからだと断言できる。
これからはそんな出会いの場を他の人とも分かち合いたいと考え、出張レッスンを開始することにした。
フライヤーのデータを添付したので、是非お目通しください。