「絶景かな星陵高校」坂井 昭彦 (高36)

こんにちは。
神戸市中央区で税理士を開業しています。武道としての手裏剣術を実践していることから手裏剣税理士と名乗っています。
高校時代はどちらかというとあまりぱっとしないというか目立たない方だったのではないかと思います。成績も数学のテストで13点を取ったり世界史で100点(正確には103点満点の102点)を取ったりと、かなりムラがありました。部活動はアマチュア無線部と漫画研究同好会というオタク系の活動にどっぷり浸っておりました。

アマチュア無線部
アマチュア無線部の部室は美術室と音楽室の間にありました。存在感がなかったのか、同窓生の間では「そんな部屋あったっけ?」と都市伝説のように言われることも多く、新校舎になってしまった今では「ほら見ろ」と連れて行って実在を証明することもできませんが、もともとは両室に関係する備品などを入れておく物置だったのではないかと思われる、窓がなくて狭くて薄暗い小さな部屋が確かにあり、そこが我々アマチュア無線部の部室でした。
部屋の中はリグ(無線機)や古い時代の雑多な機材類でごった返していましたが、意外に快適で、隠れ家というか「秘密基地」のような場所でした。私はその「秘密基地」で先輩からアマチュア無線のイロハを教わりながら日々交信にトライしておりました。

ここで少し、アマチュア無線の交信について、基本的な流れを書いておきます。交信は、他の無線局がその周波数を交信に使っていないかを確認することから始まります。誰も使っていないことが確認できたらおもむろに、「CQ、CQ、CQ、コーリングCQオン、シックスメーター、こちらJA3ZEN、ジュリエット・アルファー・スリー、ズール・エコー・ノーベンバーです…」といった独特の言い回しで交信の相手局を探します。CQというのは不特定多数の相手方に対し「誰でも良いから私と交信しませんか?」と呼びかける際に使う用語です。電波を受信した相手局がこれに応えて交信が成立すると、お互いのコールサイン(上記JA3ZENのような無線局の識別記号)などを確認し合い、最後に「73(セブンティスリー)サヨナラ」と、これまた独特の言い回しで交信を終えます。交信した証としてJARL(日本アマチュア無線連盟)経由でQSLカード(交信日時や双方のコールサインを書いた絵ハガキ状の交信証明書)を交換することもありますし、使用しているアンテナやリグ(無線機)の話をするなど、ちょっとしたおしゃべりをすることもあります。基本的にはこんな感じで一連の交信が終了します。

ちなみに、JA3ZENを「ジュリエット・アルファー・スリー、ズール・エコー・ノーベンバー」とわざわざ言い換えるのは、帯域の狭い無線通信の電波は歪みやノイズの影響を受けやすく、その電波を復調した音声も当然にその影響を受けて非常に聞き取りづらいものになる場合が多いので、個々のアルファベットにつき、あらかじめ定められている英単語(フォネティックコード)を併せ伝えることで確実に情報伝達ができるよう工夫しているからです。フォネティックコードはアルファベットに対応する英単語を定めた「欧文通話表」のほか、日本語の五十音に対応する言葉を定めた「和文通話表」もあります。例えば坂井昭彦なら「桜のサ、為替のカ、いろはのイ、朝日のア、切手のキ、飛行機のヒ、子供のコで、サカイアキヒコです。」みたいな感じになります。このフォネティックコードを覚えるだけで、なんとなく無線の世界に浸ることができますので、皆さんも自分の名前はどう表現するのかな?とか考えてみてください。
参考までに通話表を掲げておきます。

ここでひとつ懺悔というか告白をしてしまいますが、実は私はアマチュア無線がやりたくてアマチュア無線部に入った訳ではありませんでした。小学校の頃からいわゆるエレクトロニクス工作にハマり、中学生時代には自作のプリメインアンプで音楽を楽しみつつ、マイコン雑誌などを読みあさっていた私は、コンピューターやエレクトロニクスなど情報処理や電子工学系の活動がしたかったのですが、入学当時にはそのような活動をしている部がなかったので、ある意味消去法でアマチュア無線部を選びました。そのため、星陵祭の展示などでも自前のパソコン(PC-6001)を持ち込んで自作の占いプログラムを走らせるなど、少し毛色の変わった活動をしておりました。ただ、きっかけはともかくとして、アマチュア無線部に入ったことでアマチュア無線の何たるかを知り、同期の部員はもちろん、先輩や後輩にも恵まれ、普通ではたぶん体験できない色々な経験を積ませていただいたことには非常に感謝しております。

アマチュア無線部の活動で特に印象に残っているのはアンテナのメンテナンス作業とフィールドデーコンテストへの参加です。キーワードは「絶景」とでも書いておきましょうか。
前者は屋上に建てられていた大きな八木アンテナの支柱によじ登り、サビを落とし、サビ止めを塗ってから再塗装する、といった地味でハードな作業でした。正直言うと高いところは苦手だったのですが、意を決して登ってみると、そこから見える景色はまさに絶景!で、360度の視界からパノラマ状に飛び込んでくる街並みと山々、光り輝く海、そして青く澄み渡る空が本当に綺麗でした!

後者はJARL(日本アマチュア無線連盟)が実施する無線局移動運用のコンテストで、毎年8月第1土曜日の夜から翌日朝にかけて規定時間内の交信件数などを競うというものです。普段は光の入らない穴蔵のような部室からの交信ですので、リグ(無線機)を部室から外に持ち出すということ自体が滅多にないことですし、屋外で外泊するというのもなかなかないことでしたので、ウキウキワクワクお祭り気分でした。実際の移動運用は須磨浦山の中腹にある休憩所で行われ、昼間のうちに機材を持ち込んで設営し、夜、規定の時間になったら交代で夜通し交信をするという段取りでしたが、眼下に広がる夜景と上空に広がる満天の星空のもと、弁当やおやつを食べながら、そして夜通し語りながら交信をしたことは大変楽しい想い出になりましたし、かつ、貴重な体験でもありました。

現在は残念ながら星陵高校にアマチュア無線部は存在しないようです。インターネット時代になり高度情報化社会になって誰もが携帯電話を持つような世の中ですので、アマチュア無線はやや時代遅れに感じるかも知れませんが、災害時の通信手段として再び脚光を浴びているといった側面もありますので、興味がある方はぜひチャレンジしていただきたいと思っている今日この頃です。

漫画研究同好会
もう一方の漫画研究同好会ですが、こちらはアニメ雑誌などで同人誌やコミケ(コミックマーケット:同人誌即売会)というものがあることを知り、同人誌活動にのめり込んでいった高校一年生の夏以降から本格的に活動を始めました。

漫画は小学生の頃からよく描いていましたが、これは幼い頃、絵の上手い兄が私を喜ばせるためによく漫画を描いてくれたのをマネしてはじめたのがきっかけです。兄とは違って絵が上手いワケでも才能があるワケでもなく、下手の横好きというヤツでした。正直言ってラクガキの域を出ておりませんでしたので、漫画家がGペンを使って描くような本格的な漫画などは自分には描けないと思っていましたし、描く気もありませんでした。
しかし、小学校高学年の時に起きた、ある「事件」をきっかけに、長期にわたり大量の漫画を読むようになったことが私の意識を変えていきました。
その「事件」とは、近所に住んでいた同級生のお父さんが亡くなったことです。その同級生の家はお店を経営していて私もよく朝食用のパンを買いに行ったりしていたので、お母さんとも顔なじみでした。子供心に何かしたいと思い、兄とお小遣いを出し合って少年漫画雑誌を買うことにしました。

その後、私も兄も少年漫画雑誌にハマってしまい、気がつけば少年漫画雑誌5冊/週+少女漫画雑誌1冊/隔週といったハイペースで漫画を読むようになってしまっておりました。結局、小学校高学年から社会人になって東京に行くまでの十年余りの多くの優れた作品に出会う機会に恵まれ、自分も人をドキドキワクワクさせたり感動させたりする作品を描いてみたいと、思うに至り、本格的に漫画を描き始めてしまいました。複数の同人誌サークルに入会して漫画の批評文を書いたりイラストやカットやオリジナルストーリーの漫画を描いて投稿したりと、睡眠時間を削って精力的に活動していました。学校内でも、教室にペンと投稿用の漫画原稿用紙を持ち込んで休み時間に漫画やイラストなどを描いていました。

漫画研究同好会の活動の中で特に印象に残っているのは、会誌に掲載する漫画を描いたことと、アニメーションを制作したことです。漫画研究同好会はその当時、生原稿をそのまま綴じ込んだ「一円の化石」という会誌を年度ごとに発行していたのですが、私はそこに「Sense of Nonsence 」というタイトルの、やたら長いだけの漫画を描きました。どんな内容の話だったかは忘れてしまいましたが、とにかく描くことが楽しくて、寝食を忘れて描いていたことと、脱稿した時の達成感だけは今も鮮明に覚えています。

漫画研究同好会での最大の想い出は、なんと言っても星陵祭で発表するためのアニメーションを制作したことです。メンバーは今や世界的なプロダクトデザイナーとなってしまった安積(伸)と、今や特撮戦隊モノの監督・演出者としてWikipediaに載るほど有名になってしまった、たけも(竹本昇)と私の三人でした。アニメーションの制作は、今の時代であればコマ撮りの出来るデジタルビデオカメラで撮影するとかデジカメで撮影してパソコンソフトで動画に変換するといった話になるのでしょうが、当時はまだそういったツールがなかったので8mmカメラでのコマ撮りでした。打合せをする中で、レゴブロックを使ったコマ撮りアニメーションと、ナベサダの雨上がりというフュージョン系サウンドに合わせて物語が展開するペーパーアニメーション(セル画ではなく紙に動画を描いてコマ撮りするアニメーション)を作るという話になりました。ストーリーを考え、絵コンテを描き、レゴブロックを少しずつ動かして撮影をし、あるいは、大量の動画を動作のタイミングや動きなどをチェックしながら書き上げて色を塗り、コマ撮りをするという作業を、分担して延々と続け、最後に編集して音声をつけてなんとか完成にこぎつけました。

星陵祭での上映も好評だったので非常に感慨深く、かつ、貴重な経験にもなりましたが、個人的にはたけも(竹本昇)が個人的に制作した二頭身仮面ライダーのアニメーションの出来が秀逸すぎて、敗北感を味わったりもしていました。
漫画研究同好会には卒業して大学に通っていた先輩もよく遊びに来られていたので、私もそれにならい、卒業してからも少しの間、漫画研究同好会に出入りしていました。喫茶店で後輩にジュースをおごったりと先輩風を吹かせたりもしながら楽しく活動させていただきましたが、そういえば私の標準服を漫画研究同好会の後輩に貸したままになっていたなと、今頃になって懐かしく思い出している今日この頃です。 

震災で卒業アルバムを失ってしまい記憶に頼って書いておりますが、その点は平にご容赦いただければと思います。
個人的にはこの原稿を書くことで当時の雰囲気を思い出し、また、いくつかのほろ苦い思いなどもよみがえってきて感慨深いものがありました。高校時代は毎日がキラキラと輝いていて、まさに絶景の連続だったのだなと、今さらながらしみじみ思い返しています。