校歌

校歌の制定     

中田 光雄 星陵高校初代校長

二つの学校(県立第四神戸中学校)(県立神戸商業学校)とを合併し、統合するためには、先ず校章を決めることと、校旗、校歌の制定ということが一つの問題であった。

何といっても校歌は品格が第一であるから第一級の人でなくてはならぬと考えて、夙に英文学者として令名がかたく、詩歌にも御造詣のふかい、竹友藻風先生にお願いすることになったのである。

その頃先生はダンテの神曲を翻訳中であったが、喜んで引き受けて下さった。作歌に先だって、ある日先生は奥様に付き添われて、この星ヶ丘に上り、本館の屋上から輝く明石の海や、私の指さす播磨のかすむ山野を、うっとりと心ゆくまでごらんになってこの清風、この風光を嘆美して止まなかった。

かくて簡明にして、しかも典雅、雄大なこの校歌が生まれ出たのである。

楽譜表紙デザイン: 元教諭・日本画家 大橋良三先生

校歌作曲へのあれ、これ!

斎藤 登(県商44回生)

懐かしい母校、星陵高校の先生、伊藤、松下両氏から新制母校校歌の作曲の依頼を受けたのは、昭和20何年だったか?御影で戦災を受け無一文になって大倉山のアバラ屋にやっと住みつき、デスペラートな気持ちからやっと自分を取り戻し、再起しようとしている時だったと記憶している。

勿論、喜んでお引き受けしたのだが、担当の松下先生が仲々音楽通で、現代音楽風にとの強いご希望があり、竹友さんの作詞と調和させながら、なおかつ新らしくと苦心したのを思い出す。

大体が式典用の校歌や、生徒の生活に同調しないために、想い出となるロマンの無い校歌がキライだった私にとって、単に仕事としてでなく、心からの作曲ができた一つだと思っている。

終りにつけた星陵、星陵のルフランも、こうした私の音楽上のパッションだったが、竹友さんも中田校長も心良く、むしろ喜んで受け取って下さったし、曲中に挿入した短調風のリリシズムも、発表会の日に在校生が心に触れた青春の唄い方を見せてくれたので、非常に嬉しかったのを覚えている。

当時、私がNHK・BKの作曲指揮嘱託だった関係もあって、校歌発表会の日には放送管弦楽団の伴奏で、強弱も正しくとって全員が斉唱出来たのは、あの戦後時代では大変ゼイタクなものだったし、県の社会教育課のご好意でコントラバスやティムパニイ等は前日に大阪東区馬場町のBKスタジオから垂水の学校まで県のジープで運んでもらったりしたものだった。今考えると全くウソのような出来事だったが、私にとっては忘れられぬ、ホホエマしく楽しい1コマだった。

それ以後、学校の音楽部の指導を引き受けて中田校長宅へは勿論、松下先生宅には度々お邪魔して、私がNHKオペラハウスの時間のオペレッタの部で『若き日のハイデルベルク』『砂漠の歌』等を放送のために上京した26年頃まで、星陵との深いつながりが続いたのであった。

校歌が、幸い愛唱されているのを伝え聞くにつれ、私の郷土神戸の星陵に、また行きたい衝動が起きてやまないが、校歌のことを想起するごとに必ず随伴する思い出の一つを蛇足すれば(恥ずかしいことだが……)1日、松下先生宅で痛飲して、神戸へ帰るべきところを京都まで寝過し、京都駅で夜明けを持った一事である。呵々

いづれにせよ、自分の産んだ歌曲が、無限の可能性を内含する若人たちに歌い継がれていく事は、電波と共に流れ去る放送作曲家の私にとって最高の喜びであることを附言しておく。(茅ヶ崎にて)

昭和39年発行 『創立記念誌 第一号』より

校歌発表会