「井の中の蛙、英国に渡る」ヤング 香織(高34)

こんにちは。34回生のヤング香織(旧姓殿山)です。今回コラムの依頼をいただき、何を書こうか悩んだのですが、高校時代、英語が大大大~の苦手だった私が英国で暮らすようになったいきさつを、これを機に振り返ってみたいと思います。

…自由な校風の高校時代をのんびりと過ごした私。授業にも不真面目(ごめんなさい先生方、もっとしっかり勉強しておけばよかった…)、部活も必死になることなく、部の仲間と共有する時間が楽しかった(部員のみんな足ひっぱてごめんね)。カバンにジャラジャラ飾りを付け、ヘンテコな格好して登校していました。早弁は当然、部活中に焼き芋焼いたり、放課後にコンサートに行ったり、寄り道、買い食い、星陵祭…、そんなことばかり思い出されます。

将来の具体的な目標も持たず、なんとか受かったのが教育大。その流れでなった中学教師。教職に情熱をかける同僚の中で、とまどいと違和感がありました。子供たちと触れ合う教職にやりがいはあったものの、自分なんかが教師をしていてもいいのかという自己嫌悪。高校生活、羽を伸ばし好き勝手に過ごした自分が、生徒指導や風紀指導をしている矛盾。そんな気持ちも毎日の実務の忙しさに押しやられたまま、歳月だけが過ぎていきました。

《教員時代》

そして、あの「阪神大震災」。通勤路の阪神高速道路は倒れ、勤めていた中学校は校舎の8割が壊れ、残った体育館は避難所になりました。男性職員は泊り込み、私は何時間もかけて通勤しました。地震後数週間の記憶はなぜか靄がかかっていて具体的によく思い出せないのです。生徒の安否確認、学校新聞を電柱に貼ってまわったり、自衛隊のヘリから救援物資をリレー、原付で瓦礫を避けながら家庭訪問…という断片の記憶しか。しばらくすると、近くの学校の校舎を借り臨時時間性で授業ができるようになりました。中3担当の私達は進路指導にも東奔西走の日々。当時は震災被害に合われた方々皆が、私なんかよりもっともっと凄い体験をされたと思います。

3月には運動場にプレハブ仮校舎が建ち、教えていた生徒達も巣立っていきました。この時、私の中で張り詰めていた糸が一本切れたのです。その心の隙間に、「明日何が起きるか予期できない。やりたいことを今やらねば。人生一度。」という思いが強くなっていきました。

それが子供の頃からの漠然とした思い、「別の世界を見てみたい、海外で暮らしてみたい」につながっていったのです。97年3月に新校舎が再建したら、11年間続けた教師を辞めようと決めました。それまで、なんとなく流れにのってきた私の人生。自分の意志でその流れから外れてみようと思ったのです。

周囲の反応は、「その歳(当時33歳)で何を今更」「教師を辞めるのはもったいない」「帰国後の再就職は無理」「現実逃避」と猛反対。でも一度転がりだした思いは止めることができませんでした。反対を押し切り、期間限定という条件で親を説き伏せ海外生活をすることにしました。

《英国生活のスタート地点、Eastbourneの海岸通り》

《週末はSeven Sistersの崖までハイキング》

《よく遊びに行った隣町Brightonの夕暮れ》

「くまのパディントン」も「メアリー・ポピンズ」も「嵐が丘」もビートルズもタータンチェックもターナーの絵も…昔から心惹かれたものは英国生まれ。そうとくれば行くしかない。97年6月に海沿いののどかなイーストボーンという街で英国生活をスタートしました。英語がまるっきりできなかった私は、まず語学学校に通い始めました。クラスメートの殆どは様々な国籍の10代後半20代前半の若者たち。そんな中、一人異色の私。今までの教える側から教えられる側になり、違う空気の中での毎日の生活が新鮮で、あっという間に6ヶ月の語学コースを修了しました。

《6年間暮らしたロンドンはエネルギー溢れる都市》

ちょうどその頃ロンドンで働いていた大学時代の友人に、仕事の空きがあると誘われ、日系コミュニティ誌で働き始めたのです。間もなく夫と出会い、結婚し……別の方向に運命がどんどん転がっていきました。

《現在の居住地、Coventryのシンボル、旧大聖堂》

9年前に夫の実家のあるコベントリー市に転居すると同時に、工業機械会社でフルタイムで働き始めました。機械部品を日本、タイ、中国等から輸入、ヨーロッパ諸国に輸出するコーディネートが私の仕事です。様々な国の人たちと電話やメールで毎日やりとりしています。

英国で暮らして、良いなと思う点を羅列すると、人に対して気さくで親切、必要以上に干渉しない、意見を持ち・意見を聞く、古いものを大事にする、年齢で枠にはめない、余暇を大事にする、チャリティー精神、異なものを受け入れる寛容さ、緑あふれる環境、美しい街並み・田舎風景、自然を敬う、涼しい夏、多民族国家で異文化が身近にある、美術館が大抵無料、リラックスした生き方…。

《緑多い英国の村》

逆に、暮らしにくい点は、物価が高い、すぐ遅れる公共交通機関、長く暗い冬、カスタマーサービスの悪さ、健康に対する意識の低さ、日本食材が少なく高い、美味しいケーキ屋が少ない、地域によっては危険、何をするにも時間がかかり不便、…。最近はもう不便さに慣れて、帰国時に日本の便利さに逆にとまどうようになりました。

《郊外はのどかな丘陵地が広がる》

英国人は「You can’t take it with you」という言葉を折にふれよく使います。この場合の「it」は「お金」のこと。あの世までお金を持っていけないから生きている間お金を溜め込まずに楽しんだ方がいいという意味です。老後のために貯蓄している人は日本と比べ驚くほど少なく、「今」できるうちに人生を楽しもうというお気楽系が主流を占めます。そんな考え方が、震災後の私の人生観とうまくオーバーラップしたんだと思います。「別の世界を見てみたい」という私の思いは今でもしっかり健在で、休暇ごとに「旅」することに楽しみを見出しています。

《古い茅葺屋根の家に住むのは英国人の憧れ》

私の立ち位置~気分が上向きのときには、「英国と日本、両ライフを2倍楽しんでる」と得した気に。悲しいときは、「英国と日本とのハザマ、両方に属せない」とホームシックでさらに落ち込む。帰りたい時にすぐに帰れない日本との距離。乗り継ぎ便で関空まで16時間はやはり遠い。帰国はせいぜい年に1回ぐらい。帰国時の限られた日程の中、高校の同窓生に会うことはかけがえない喜びです。昨今、インターネットの普及で日本との情報の距離は、ぐっと縮まりました。FACE BOOK等で気軽につながりを持てたり、同窓会もライブ中継で、遥か離れているのに参加した気分を味わえたり、そういった面では昔に比べ寂しさが少なくなりました。

震災がきっかけで英国に暮らし、あっという間の16年間。この人生の選択が良かったのか悪かったのかは判りません。新しい出会いや経験、視野が広がった代償として、失ったものも多いし、泣いたことも多々あります。ただ、思い切って行動に移したことには後悔していません。井の中の臆病だった蛙が大海を垣間見ることができたのですから…。 

《まだまだ飛び跳ねたい蛙》