「10年を振り返り、今思うこと」神足 啓子(高51)

51回生 神足啓子です。
1年時の担任、国語教諭高橋勝先生からご指名ということで、お声をかけて頂きました。
蒼々たる先輩方のリレー連載コラムバトンを受け取ったプレッシャーに、今更なんのお咎めかと、高校時代に働いた悪事の数々を思い出しております。

高校時代も今も変わらず、我道を進んでおります。特にこれといった目標があるわけではなく、常に感覚で動いているため、来年の今頃はどこで何をやっているかわかりません。

毎年進級会議にひっかかる問題児で、大学進学は当時、あまり考えていませんでした。将来何をやりたいかということも深く考えていませんでした。
他の人より長い反抗期、表面にしか見せられていないものの裏側を知りたいという好奇心、大人にはだまされないぞという社会への(謎の)不信感が強かったのです。色んな国を見てみたい、島国にいては見えてこない世界を見たいという気持ちは、この頃からありました。
とにかく主要科目は目も当てられない成績でした。高校3年時に受け持って頂いた音楽の教育実習生から、音大を目指してみてはと励まして頂き、幼少の頃から続けていたピアノで音大を受験しました。

後に、私も音楽の教育実習生として星陵の教壇に立つ事になりますが、音楽の時間は、文武両道星陵生の至福の(?)時間ということよくよく知っていましたので、あえて「アマデウス」の映画を生徒さんたちに観ていただくなど、偉大な作曲家と言われる歴史人物たちの、裏の顔を暴露するというテーマで「聞きたい」授業を行いました。(寛大に見守って下さった坂下先生に感謝)

音大時代は、合コンとバイトに励んでいましたが、パリ留学に憧れ、フランス語に一生懸命になっていました。ご縁があってレッスンを受けさせて頂いたピアニストの先生より、オランダのユトレヒト音楽院の大学院に留学しないかとお誘いを受け、美のフランスから粗のオランダへと、あっさり進路変更をしたのです。

和気あいあいとした日本の私立の音大から、コンクールで賞金が貰えるまで帰れないと、片道切符で留学してくるような、本気の音楽学生が集まる学校に入ってしまったため、最初は散々な思いをしました。気候も食も、自分が思い描いていたヨーロッパではない。英語は全く話せないので、「me, Keiko」という赤面自己紹介をするのが精一杯で、音楽の知識も少ないものだから、常に笑い者でした。
そんな中、助けてくれたのは同級生の中国人留学生たちでした。漢字を使った筆談で勉強を教えてくれ、いつも一緒にいてくれたのです。

反骨精神で、実技だけでもうまくなりたいと、1日のほとんどを練習に費やしました。腱鞘炎を繰り返していましたが、ピアニストになりたいというよりも、勝負に勝ちたいという気持ちが強かった。

【音楽院学生時代 オーケストラとの共演】

音楽院を卒業してからは仕事が無く、炭酸水を飲んで空腹を紛らわす、その日暮らしの芸術家生活につらくなり、音楽家という道を外れることを決めました。期待してくれた恩師や両親には申し訳ないという気持ちはもちろんありました。でもやりきった感があったので、自分の納得のもと、日々の練習時間、そして手を極力使わないで生活するということから解放され、これからは今まで出来なかった事をおもいっきりやろう、と清々していました。27歳のときです。

会社勤めの経験が無かった私は、倉庫での仕事から入り、転職を繰り返し、ようやくデスクワークの仕事につきました。会社勤めの傍ら、日本人駐在員ご家庭のお子さん達にピアノレッスンをさせて頂いていました。オランダ国内で移民排斥の運動が盛んなときは、日本人である私も労働ビザ取得には困難しましたが、何でもするから仕事を下さいというスタンスでいたので、ピアノを教えながら、色んな職種を経験させてもらい、様々な国の人たちと交流がありました。

【製鉄所に出入りしていた頃!】

休暇の度、とにかく旅行をしました。ポーランドのアウシュビッツ収容所、いまだソ連時代の跡が残る、ラトビアのリヤパヤ、インドのデリ。人間の愚かさと精神力、荒野から生みだされる文化、生に対する執着力。その地を歩き、空気を吸い、現地の人と会話を交わすことで、他人の目を通して伝えられるその地の情報と、また違った角度から、受ける印象は新鮮でした。

オランダは政府によって受け入れられた難民も多く、ビザを取る為のプログラムで通った語学学校には、戦火を逃れてオランダに逃げてきたクラスメートたちが多くいました。また、製鉄所に出入りしていたころには、コソボ紛争で戦い重傷を負いながらも奇跡的に生き延びたセルビア人と知り合い、戦争・紛争を経験した彼らからは、戦争がどんなに悲惨で、どうやって立ち直ったかを聞かされました。敬虔なイスラム教徒の元同僚は、宗教上の社会問題が起きると、負い目を感じて外出ができないと、言っていました。自分の努力ではどうしようもない与えられた運命を背負って生きている彼らは、勉強をしたい、仕事をしたいという意欲が凄く、目標や夢をはっきりと語れる。先進国に生まれ育った私の方は、そこそこの生活ができればいい、という「なんとなく」の生き方になっている。遠い世界の昔話ではなく、自分と同世代の人たちの経験、話を聞くことは、自分の生き方を見直すきっかけになりました。

東北地方太平洋沖地震が起きたとき、国境、宗教を越えた同僚・友人達の協力を得て、チャリティコンサートを開催することが出来た事は、10年半に亘るオランダ生活のなかで、一番心に残る思い出です。

【3.11震災チャリティコンサートを、新聞で取りあげて頂きました】

日本から出なければ、知り合うことはなかった人たちとの出会い、私が常に前進していけるのは、彼らにもらったパワーのお陰です!

そして、最近では高校卒業以来疎遠になっていた同級生からお声をかけて頂く機会も多く、垂水から遠く離れた東京での、思わぬ再会に感謝感激です。

人と人とのつながりを大切にすること、と高校のクラスで高橋先生が仰っていたことは、ずっと忘れずにいますが、年々その大切さを実感しています。