平成28年度文化講座「『播磨国風土記』に見えるふたりの美女」中西正和(星陵高校教頭)

~印南別嬢(いなみのわきいらつめ)と根日女(ねひめ)~ 

平成28年12月10日(土)星友館において、文化講座が開催され20名が参加されました。今回は、星陵高等学校現教頭、中西正和先生が「播磨国風土記」についてお話ししてくださいました。

 

 

 

 

 

 

 

講義に入る前に、先生ご自身のこれまでの研究内容や教師としての来歴のご紹介がありました。星陵高校には教頭として赴任されたので、一度は優秀な生徒たちに授業をしたいと思っていたが、やっと修学旅行前の2年生に沖縄戦の話をする機会に恵まれ、とても楽しかったとおっしゃっていました。 

講座では、「播磨国風土記」から2つの話を紹介されました。

景行天皇の時代、天皇は加古川に大変な美人、印南別嬢がいることを聞き、妻にしたく加古川にやってきました。はじめは逃げていた姫もやがて天皇と仲良く暮らしました。年がたって姫が亡くなり、日岡山にお墓を造りました。姫の亡骸を運ぼうと加古川を渡ったとき急に竜巻がおこり、遺体が行方不明となりましたが、姫の愛用の櫛の箱と領巾(ひれ…古代の女性の装身具)だけが見つかり、お墓にはひれを葬ったのでした。それから姫の墓を「ひれ墓」といいました。

この話の解釈としては、天皇が加古川の勢力を支配下に置いたので、印南別嬢は人質として大和に送られ、死後大和に葬られたため、播磨に造った墓には遺体を葬れず、遺品を葬ったと考えられます。

オケ・ヲケの皇子は、山部小楯を派遣して、国造(くにのみやつこ)の許麻(こま)の娘の根日女に求婚しました。根日女はそれに応じましたが、オケ・ヲケの二人の皇子がお互いに譲り合っているうちに月日がたって、根日女は年老いて、ついに死んでしまいました。これを聞いた二人の皇子たちは深く悲しみ、「陽のあたるところにお墓を造って、遺骨を納めましょう。そして玉でお墓を飾りましょう」と言って墓を造り、この墓は玉丘と呼ばれました。

この話の解釈としては、オケ・ヲケという有名で高貴な人物に求婚されたという事実によって根日女の地位も上がるため、根日女という女性の偉大さを顕彰する話であると考えられます。オケ・ヲケ皇子は皇位継承の際に位を譲り合ったという記述が日本書紀にあり、風土記の編者はこれを読んでいた可能性があるそうです。

このように、古代の説話をひもとけば、当時の加古川勢力の状況や、日本書紀の成立論にまで発展して考察できるのではないかというお話でした。身近な地域の現存する史跡の写真とともに、冗談を交えながらの講義に、みなさんうなずいたり笑ったり、終了後に質問のため居残りされるかたもおられ、とても有意義な時間を過ごされました。