「海の色と雪の色、そして街の色―高校時代の思い出と、その10年後のこと―」内田 彩美(高58)

さっき押し入れから引っ張り出してきた高校時代の卒業アルバム。いま目の前にあるのだが、数時間経ってもいまだに表紙を開けられないままでいる。

写真うつりが良くないとか、体操服姿の自分を見たくないとかそういう気恥ずかしさもあるけれど、何より“10代後半”の記録を直視するというのは思っていたよりも精神的にきつい。というのも、この耐え難さは個人的には中学校時代のそれをも上回っていて、当時のことを思い出そうにも浮かぶのは穴があったら入りたい記憶ばかり、なんでこんなコラムを引き受けてしまったのかいよいよ分からなくなってきた次第である(久しぶりにドキュメントファイルを開いたところ、この文を最後に丸1ヶ月放置していた)。

今回書かせていただくのは、高校3年間で強く印象に残ったことと、その十年後のことだ。あまりわくわくするような話でもないし、バックナンバーの先輩方に比べれば地味かもしれないが、高校時代に戻ったつもりで読んでもらえるとうれしいなと思う。

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今となってはよくわからないことだが、星陵に通っていた頃のわたしは毎日憂鬱で仕方がなかった。

友達もいたし成績もそこそこ、部活でもなにか問題があるわけでもないのに、心の中は常に穏やかでないものがぐるぐると渦巻いていた。もちろん高校生らしい楽しい時間もたくさんあったけれど、その時はいろいろなことを両立するのに必死でバランスがとれていなかったのかもしれない。学校で友達と盛り上がる自分がいる一方で、家に帰ると底のない不安が頭をもたげる。こんなのでいいのかな、ともやもやとしたまま眠りについて、朝目覚めるとなんとなく気分が重い。それでも光の速さで進む授業のことを思うと休む気にはなれず、鉛のような足を動かして学校に行っていたのを覚えている。なんでこんな気持ちで毎朝登校しなければならないのか考えれば考えるほどぬかるみにはまり、当時は学校に着く前から帰りたいと思っていた。なんか書いていてだんだん悲しくなってきた。

通学するだけでも億劫なのに、自宅から星陵までは歩いて数十分もかかる(バスを乗り継いでも時間は変わらなかったので、体力をつけるために毎日歩いていた)。アップダウンの激しい坂道がいくつも続き、真冬でも汗を流すほどの苦行コース。起伏が多いこと以外は何の変哲もない通学路だったが、最後の最後に見える風景をわたしは毎日ひそかに心待ちにしていた。

星陵台に続く長い坂を上りきって、目の前に広がる明石海峡。日差しが照ろうが大雨が降ろうが、海が見えた時だけは通学の苦しさを忘れることができた。

(商大筋から見える海の写真。2012年撮影)

星陵のあたりから見える海はほんとうに広い。周りにマンションが次々と建つだけあって、見事に広くて、見事に青い。でも青いだけでなく、日によって灰色になったり、緑がかって見えたりもする。そのことが不思議で面白くて、いつしか海はわたしの日常にとってなくてはならない一部分になり、買ってもらったばかりの携帯電話で教室からの風景を撮ることを小さな楽しみにしていた。画面が小さくて、まだ携帯でパノラマ撮影もできなかった頃の話だ。

(星陵の教室から見える海を撮った当時の写真。10年前の画質だとこれが限界)

写真はあまりなかったけれど、記憶にはいろいろな風景が残っている。天気のいい日に教室の窓を全部開けて、夏の風景を独り占めしたときのこと。夕焼け空の下で、紫へと変わって行く海を眺めたときのこと。部活で遅くなった帰り、偶然明石海峡大橋のライトアップの瞬間に立ち会えたときのこと―――

そこに海や街並みがあるだけなのに、見ているだけでほっとする。どれだけ退屈な日常でも、空や海の色と同じように一日として同じ日がないということに気づかされる。そういう意味では、海が見える高校に行けたことは結果的には良かったんだろうなと思う。あんなに風景に恵まれた場所で一年を過ごせることはもうこの先本当にないのかもしれないと思うと、灰色だったあの頃も少しだけ色味を帯びてくるような、そんな気がする。

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「色」といえばもうひとつ、三年間で強烈に印象に残ったことがある。長くなってしまうのでこの話を入れようかどうか迷ったのだが、せっかくなので書くことにする。

吹奏楽部の行事か何かで学園都市に行ったときのことだ。一年を通してあまり雪の降らない神戸で、三月の初旬に大雪が降った。みるみるうちに雪が積もり、駅の周りの広場が辺り一面の銀世界へと変わった。見たことのない景色に心が踊り、手ぶらだったわたしたちは雪だるまを作り始めた(本当にまるまる一体作れるくらい降り積もっていた)。しかしそれだけでは満足できず、新たな刺激を求めて誰からともなく小さな雪玉を作るようになった。ふざけて投げ合っていたのがいつしか真剣勝負になり、呼んでもいないのに他の部員がわらわらと増え、やがて男女混合の総力戦に。雪が猛烈に吹きつける中、がちがちに固めた雪玉を投げ合う大乱闘が起こった。

雪玉は体に当たるとけっこう痛く、顔面に当たると声も出ない。それでもただただ夢中で、純粋に楽しかった。フィクション化されるようなステージ上の青春でもなく、行事の時の団結感でもない、一高校生としてのむき出しの楽しさがあったと思う。

けれど、心の中を占めていたのは楽しさだけではなかった。こんな風に制服で走り回って素手で雪に触るような時間はもう二度と来ないんだな、と思うと今度は無性に悲しくなり、少し泣きそうになったことを覚えている(泣かなかったけど)。今振り返れば馬鹿げた時間だったかもしれないけれど、どんなに望んでももう戻れない10代の時間でもあったことも確かなので、あの時ちゃんと夢中で遊ぶことができたことに少しほっとしている。

さて、一緒に遊んだ部員のうち、どれだけの人が雪合戦のことを覚えているだろう。同級生に聞いてみたいけれど、本当に忘れてたらショックなのでいまだに話題にできない。でも―――もし忘れている人のほうが多かったとしても、あの時の学園都市の雪景色はわたしの心の中に強く残っているし、これからもずっと覚え続けていると思う。今思えば、本当にめったにない体験だった。

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早いもので、あの雪合戦から今年の3月でもう丸10年が経った。数年前に垂水を離れたせいで普段海とはあまり縁のない生活を送っているし、雪合戦とはもっと縁がない。 

それでも、生まれ育った垂水とのつながりが切れたわけではない。ここでやっと近況報告である。

わたしは今神戸市内で仕事をしている一方、垂水に足を運んでは地域のイベントにちょくちょく参加させてもらっている。垂水周辺のお店やクリエイターが美味しいフードや作品を出展する「旅するたるみマルシェ」、垂水の魅力を有志で発信し、トークを繰り広げる「マチオモイサロン」などなど、区役所や垂水のお店が主体となって新しい取り組みを始めていることを知らない人はまだ多いかもしれない。裏方なのか一般客なのかよく分からない立場だが、地元の人たちの企画に何か少しでも関わりたいという思いは当初から変わらず、タイミングが合う限り参加するようにしている。

今住んでいるわけでもない垂水に、なぜそんなに時間をかけるのか不思議に思う人もいるかもしれない。その原点を考えてみると、やっぱりなにかとうまくいかなかった10代の時期に周りの人や風景に助けられたことにあると思う。垂水を離れている間に親しんだ店や場所がひっそりとなくなったことを後になって知り、何度も悔しい思いをした。垂水区内の全ての情報を拾いきることはできないけれど、建物や場所が変わってしまう前に街が持っている「色」を伝えたいし、わたし自身も見ていたい。恩返しとはまた違うかもしれないけれど、活動を通して、垂水に住んでよかった、垂水に戻ってみたいと思ってもらえるような人が一人でも増えれば、こんなにうれしいことはない。

垂水のイベント情報は区のFacebookページやその他観光サイト、垂水駅構内の掲示板、広報誌などで入手できる。これを読んだ人が少しでも垂水の「今」に興味を持ってもらえることを願って、このコラムを終えたいと思う。

(先日参加した「旅するたるみマルシェ」の様子。舞子公園や垂水廉売市場で垂水を思う人たちが集まって、おいしいものや可愛いものを売っています。次回で10回目!)