「昔と変わらず、相も変わらず」関谷 雅彦(高34)

34回生の関谷です。もっともREKIと書いた方が通りは良いかもしれません。

始めにお断りしておきますが、私は1962年の生まれです。ですから、本来であれば33回生として星陵高校に入学するはずでした。中学2年生のときに単身アメリカへ放り出され、現地の中学校に通い、殆ど日本語を話さずに1年経って帰国したところ、英語以外のお勉強が小学生レベルになってしまいました。そのまま3年生に進級することも可能だったのですが、1年後の高校受験にそんなアタマで通用するワケがありません。そのため1学年落ちて1963年生まれの学年に編入されました。星陵時代の33回生の中には元同級生が何人もいます。元同級生なのに先輩となり星陵に入学したときにはまた同級生になっていたヤツもいますが。

そんな事情もあり、今でも少し日本語が不自由です。これから書く内容に誇大な表現、不適切な表現、紛らわしい表現等があってもご容赦ください。

中学生の頃から星陵祭に行くたびに「入学したら絶対に軽音に入る!」と心に決めていました。なぜなら、ステージであれほどレベルの高い演奏をやっている高校は他になかったのですから。

入学して見事にあてが外れました。星陵高校には軽音楽部がなかったのです。

それなのに校内には星陵祭シーズンともなれば各学年バンドが溢れ、ステージ出演のためのオーディションまで行われていました。いっそのこと普通科以外に「芸能コース」でも作れば良いのにと思ったくらいでした。オーディションは先輩・後輩など関係ありません。「上手ければ出られる。」これだけです。

そんな中、幸運なことに当時、星陵で一番上手いと言われていた先輩バンドにいきなり前任のベースプレイヤーに顔が似てるとの理由で抜擢され、1年生のときから憧れの星陵祭野外ステージに立つことが出来ました。いわゆるシードです。

2年、3年では同じ学年のメンバーで組んだ『蘭丸団』というバンドでベースを弾き、これまた屋内、野外の両ステージに出演出来ました。

蘭丸団(1981年)

この写真の際の星陵祭では最後に有志の御輿まで出て、大変盛り上がった記憶があります。

さて、話は入学時まで戻りますが、軽音楽部がない以上どこかのクラブに入らなければなりません。今考えれば、帰宅部という選択もあったのですが、自宅が徒歩10分ほどだったのでそれではせっかくの高校青春時代が終わってしまうとの強迫観念にとらわれていたようです。

そこで入部したのがアメリカン・フットボール部でした。先輩方に「オマエ、アメリカ行ってたんやったらルール知ってるやろ。」とそれだけの理由で入部させられました。確かにアメリカの中学校では体育の授業でタックルなしのタッチ・フットボールというゲームはやった経験はあります。しかし、バレーボールとソフトバレーが違うくらいアメフトとは別物です。

入学してすぐの春季大会では「期待の新人」として出場しました。これまたシードです。しかし味方チームも相手チームも出場しているメンバーは少なくとも1年間は身体、動きを作りあげて来ている選手ばかりです。そんな中で通用するワケがありません。初めてのプレイではいつ始まりいつ終わったのかすらもわからないままでした。「期待の新人」が「期待はずれの新人」に変わるのにもそれほどの時間は掛かりませんでした。

腕、足なども傷んだバナナのようなアザだらけだった何ヶ月もの練習に耐え、夏休みに入る頃になるとアザなんて出来もしなくなりました。人間の適応能力というのはたいしたものです。

34回生は33回生の部員数が少なかったこともあり、秋季大会では他校のチームが2年生、3年生主体だったのに星陵は我々1年生が主体のチームとなっていました。

我々が2年生になった年の練習試合でも、それまで星陵がどうしても勝てなかったチームに連戦連勝です。それはそうです。他チームは主要メンバーが替わりチーム作りをこれからやって行こうとしている時期です。対して星陵は充分に経験を積んだ現場叩き上げです。

まあ、ちょっと都会的なアパッチ野球軍とでも言えばわかりやすいでしょうか。

そんな満を持して待ちわびた秋季大会でした。OB連中も父兄も「今年はええ線行けるんと違うやろか。」などと珍しく練習を見に来ても優しい顔で見守ってくれていました。

1回戦の対戦相手を決める抽選会でわが星陵が引いたクジはなんと...関学でした。

当時、高等部、大学とも日本一と言われていたチームです。勝てる確立は限りなくゼロに近い対戦相手です。チームもOBもみんな試合前から落胆しました。

しかし、奇跡が起こったのです。と書くと関学に勝ったようですが、試合は負けました。ただし8対0で。

これは野球で言えば、コーチも監督もいない地方の公立高校が甲子園大会1回戦でPL学園と当たって1対0で負けたようなものです。

「関西の雄、関学 1回戦であわや敗退!」と新聞にもアメリカンフットボール専門誌にも出ました。負けてOBに誉められた試合は後にも先にもこのときだけです。おかげで今はなき西宮球場で行われていた関西学生vs関東学生のオールスター戦である西宮ボウルの前哨戦、兵庫県高校選抜vs大阪府高校選抜にもユニットで出場させてもらいました。

市立西宮高校との練習試合(1980年)

当時、星陵高校は4年制高校でしたので3年を終えると飛び級して大学へ進学する者、三宮や元町、神戸の分校へ行く者などそれぞれでした。私も当時、加納町にあったYMCA分校に進み1年後に何とか大学へ進学することが出来ました。大学入学後は念願の軽音に入部しましたが、新歓コンパで退部となりました。おそらく生意気だったのでしょう。今もですが...。

大学卒業後は貿易商社に就職し、きちんとネクタイを締めて出勤するという生活も送りました。その関係でタイでのウェットスーツ工場の建設から立ち上げ、生産指導とマネージャーとして3年間駐在もしました。タイ駐在が決まりビザの関係もあり慌てて入籍・結婚もしたのですが、結婚式を挙げた10日後にはもうバンコクに住んでいました。

ですから新婚旅行はタイ・バンコク3年の旅でした。私はゴージャスだと思うのですが、家内は「新婚旅行に行っていない!」と言い張ります。まあ、それも主観の相違でしょう。ただ、一生それを言われ続けるのも鬱陶しい話ではありますが。

3年経って帰国したときには肌の色も考え方もすっかりタイ人のようになっておりました。

こうやって自分史を書き殴っていても終わりが見えて来ないので、飽き性な私にとって唯一長年続いている音楽の話を書きましょう。

現在、いくつかのバンドでベースを弾いています。活動中のひとつはNORTHERN LIGHTSと言う多国籍バンドです。このグループは神戸に点在するアイリッシュ・パブやバー、要するに外国人のお客さんが多い店を週末に回っています。彼らは飲むのも踊るのも楽しみなので、演奏するレパートリーも新旧取り混ぜてです。古くは50年代のスタンダードナンバーから新しくはレディ・ガガまで、お客さんの顔ぶれ、反応を見ながらやります。

NORTHERN LIGHTS

また、REd KIngというサザンロックのバンドもやっています。これは音が大きめのロックバンドです。メンバーそれぞれの活動が忙しいので年に2~3回しかライブをしません。夏祭り、秋祭り、村の祭りのようなグループです。悪そうな面構えのメンバーばかりですが、少なくとも現在、犯罪者は在籍していません。

REd KIng

そしてこれまた年に何度か集合が掛かるDA MEN DA MENというバンドでも弾いています。このグループはトリオですし、基本的にリハーサルをすることがないのでステージ上でも仕掛け仕掛けられのヒリヒリ感が堪りません。

DA MEN DA MEN

今年の3月には私的にはとても大きな出来事がありました。音楽好きな方はご存知かも知れませんが、ジェフ・ベックやフレディ・キング、ディープ・パープル等、世界的なアーチストへの楽曲提供やプロデュースを行っているドン・ニックスの初来日神戸公演でベースを弾きました。

これもドンがアメリカから連れて来ていたベースプレイヤーがなんと成田で過去の犯罪歴が記録に残っていて入国拒否され、急遽公演先でベースプレイヤーを探す羽目になり、「英語が話せてベースが弾ける」との理由で私が選ばれました。ま、シードです。

ロニー・ナイトと言うこれまた有名なアーチストも一緒に来日していて、お客さんの90%が50歳台半ばから60歳台。「来日を40年待ったー!」と感極っているマニアックな方々ばかり。

これまた、セットリスト無しのヒヤヒヤライブ。良い経験でした。

with Don Nix & Lonnie Knight

そして、ガラッと趣向の違う「てぃんじゃーら」なる沖縄POPSユニットもやっています。てぃんじゃーらとはウチナーグチ(沖縄方言)で天の川の意味です。新長田琉球祭にも毎年出演をしています。来月10月20日に開催予定の第11回琉球祭にも出演します。

第26回のこのコラムを執筆された27回生 糸井先輩の「イルカ号」でも先日8月10日に船上ライブをさせていただきました。9月には沖縄北谷、コザでもライブをします。

てぃんじゃーら 第8回琉球祭

てぃんじゃーら明石海峡サンセットクルーズライブ

5年ほど前から新長田や自宅で沖縄の唄三線を教えています。三木にあるコープこうべ共同学苑でも講座を持っています。9月末からは姫路のザ・モールKCCでも講座が始まります。

下は中学生から上は70オーバーまで、老若男女です。「ボケ防止だから~」と言い切るお年寄りもいらっしゃいます。今年4月に沖縄市で行われた登川流コンクールでは新人賞に合格する生徒たちも出て来ました。私も後を追っかけられているのでウカウカ出来ません。

沖縄へ旅行した際に三線の音色を耳にして「弾いてみたいな。」と思っておられる方がおられましたら、ぜひご連絡ください。懇切丁寧にお教えいたします。

私の師匠はコザの照屋政雄先生です。俳優としても「ホテルハイビスカス」「南の島のフリムン」 「三角山のマジルー(真夏の夜の夢)」等に出演されているので、沖縄映画好きな方はご覧になられたことがあるかもしれません。

師匠の照屋政雄先生

今年3月に亡くなられた登川流宗家 登川誠仁先生

よく生徒やお客さんに訊かれます。「ロックをやっていたのに、またなんで三線なんかを?」と。

理由は「ベースが重たかったから。」です。三線は軽くて移動も楽です。本当なんです。ベース本体だけで5kg近くありますもの。そんなものを持ってウロウロするなんて。

今まで師匠や先生と呼ぶ人の存在が無かったので、政雄先生についたときはとても新鮮でした。

その師匠が「唄三線は終わりがない。」と仰っているのですから、これはきっと残りの人生を楽しめるってものでしょう。

最後に沖縄の言葉で「なんくるないさ」というのを聞いたことはありませんか?意味は「何とかなるさ」というものですが、これは本来、自分で自分に言う言葉ではないのです。誰か悩んでいる人に向かって掛けてあげるべき言葉なのです。しかも、この前には上の句とでも呼ぶべき言葉が付いています。

正確には「まくとぅ(真)そーけー なんくるないさ」です。

「人として正しいことをしていれば、何とかなりますよ。」という意味です。今となっては沖縄の人たちの中にもこの全体のフレーズを知らない人たちが増えています。

現代社会において、人として正しいこととは何でしょう。正しいことを行うことがどんどん難しくなっているような気がしてなりません。

昔と変わらず、相も変わらず。

ゆるりと人生を折り返しています。