「エジプト学の高みを仰ぎ見て」西村 洋子(高31)

星陵高校同窓生の皆さん、こんにちは。私が奈良大学史学科に非常勤講師として出講してから、今年で十四年目になります。現在教えているのは古代エジプト語の文法です。

古代エジプトと聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。砂漠…砂漠は中東と北アフリカの至る所にあります。ラクダ…残念ながら、古代エジプト人はラクダの存在を知りながら、ラクダを使用することがありませんでした。彼らはロバを使い続けました。おそらく皆さんは古代と現代の区別もついていないでしょう。私自身は古代エジプト文明を特徴づけるものはピラミッド、ヒエログリフ、ミイラであると考えます。エジプトには今も百を超えるピラミッドが残っていますが、一般にエジプトでピラミッドと言えば、ギザ台地に建つ大ピラミッド群、その中でも特に一番北側に建つクフ王のピラミッドです。ヒエログリフとは、古代エジプト人が話した言葉、すなわち古代エジプト語を表記した象形文字です。古代エジプト語は現在話されているアラビア語エジプト方言とは親戚関係にあるけれども、別の言語です。ミイラは死体を乾燥させて亜麻布や包帯で包み、永久的に保存できるようにしたものです。ミイラを作る風習は地球上の他の地域にも見られますが、16世紀から今までに発見されたきたその圧倒的な量によって、古代エジプト文明を特徴づけています。おそらく古代には億を超えるミイラが作られたでしょう。

ここまで読んできて、皆さんは私がピラミッド、ヒエログリフ、ミイラのうちのどれかに魅かれてエジプト学を始めたと思われるかもしれません。しかし、私の場合そのどれでもありませんでした。私が高校生だった頃、ピラミッドに関する書物は天文学や数学との関連で論じられたものがほとんどで、理系に疎い私にはまったく興味が持てませんでした。また、ヒエログリフやミイラについて論じられた書物はほとんどありませんでした。当時は近東の古代文化に関する翻訳書が若干出版されていた程度で、古代エジプトに特化した書物すら稀でした。それでは一体古代エジプトの何が私の心をとらえたのでしょうか。

古代ギリシアからメソポタミアまで様々な地域の古代の美術書を眺めていて、一枚の写真が私の目に留まりました。それはナクトの沼沢地での狩りの場面でした。ナクトは紀元前1400年頃に生きた天体観測官ですが、彼がルクソール西岸に築いた墓を彩る壁画はエジプト美術史における最高傑作の一つです。パピルスの茂る沼沢地で、投げ棒を水鳥の群に向かって投げようとするナクトが左側に、銛(描かれていない)で川魚を突くナクトが右側に、対照的に描かれています。一見すると家族でレクリエーションを楽しんでいるように見えますが、これは混沌とした世界に秩序をもたらす場面であり、王が砂漠で狩りをする場面や王が敵の首長の髪の毛をつかんで棍棒で打ち据える場面と同じ意味を持つと考えられています。さらに、ナクトとともに妻や娘たちが描かれることによってこの場面に新たな意味が付け加えられました。古代エジプト語では「銛で突く」と「性交する」を意味する動詞はどちらもセチ(stj)という同じ音を表します。古代エジプトでは、死者は来世に産み落とされることによって生まれ変わることが出来ると考えられました。そのために女性の協力が必要でした。すなわちナクトの再生復活のために妻や娘たちも描かれたのです。これはエジプト学ではよく知られた学説です。

私はナクトの沼沢地での狩りの場面を初めて見た時、古代エジプトでは女性たちも生き生きと暮らしているのだと思い、数ある古代世界の中でも古代エジプトが一番好きになりました。しかし、エジプト学を学び始めてから、先に述べたような象徴的な意味合いが隠されていることを知って、ますます古代エジプトの虜になりました。壁画を眺めているだけでは分からない壁画に込められた意味あいが、ヒエログリフを読むことによって明らかになるということが、とても興味深かったのです。そこで古代エジプト語の文法も学び始めました。

私は古代言語の勉強には抵抗がありませんでした。ヒエログリフを書くのも難しいとは思いませんでした。しかし、古代エジプト語の文法を学ぶために、ギリシア語やラテン語が所々に現れる英語・ドイツ語・フランス語の文献を多数読まなければならなかったことには閉口しました。日本語で書かれた書物を読むのと同じくらい速く読めればいいのにと何度思ったことでしょう。言語学の専門用語を理解するのも困難でした。文法理論が二転三転し、統一された専門用語がなかったからです。古代エジプト語の文法は完全に解明されているわけではなく、現在でも修正が続けられています。文法を学び終えて実際に碑文を読もうとすると、たった一つの単語を理解するのに何日も要しました。ときには何週間、何ヶ月も要することもありました。七転八倒してようやく意味が明らかになったときは、 ジャン・フランソワ・シャンポリオンがヒエログリフの解読に成功したときの気持ちがいくらか分かるような気がしました。今でも古代エジプト語がスラスラ読めるわけではありませんが、大学で教えなければならないので、必死になって勉強した結果、多少自分なりの解釈を示すことが出来るようになりました。本当のところ、筑摩古代オリエント集の訳者の一人である屋形禎亮先生も「(古代エジプト語を)読めるようになったのは大学で教え始めてからだ。」とおっしゃったので、少し安心しましたが、「古代エジプト語が読める」と言うには、もっともっと深く読み込めるようにならなければとつくづく思います。

修論の出来はともかく、修士号を取得し、私は二十五歳で初めてエジプト旅行をしました。本物の遺跡を見て感動の連続だったかというと、存外そうではありませんでした。修論を書くために勉強したことは理解出来ても、圧倒的に分からないことばかりでした。結局帰国後大いに勉強し直すことになり、遺跡や文字史料の調査報告書を丹念に調べることが、答えあるいはヒントを得る近道だと知りました。そして、この次は単なる観光客ではなく、研究者として訪問したいと思いました。

1995年1月17日に発生した阪神淡路大地震以後は、右半身不随になった父の介護のためにあまり研究に携わることは出来なくなりましたが、1998年6月20日に平凡社から『古代エジプト語基本単語集』を出版することが出来ました。2001年4月からは奈良大学で古代エジプト史と古代エジプト語を教えることになりました。また、介護の合間を見てエジプト学や関連分野の専門書を読むことで、新しい知識を得る喜びを感じ、十四年を超える長く困難な時期を何とか乗り越えることが出来ました。私が絶望せずに生きて来られたのは、ひとえにエジプト学のおかげです。

ところが、2011年1月25日にエジプト革命が起こりました。ツイッターやフェイスブックで知り合ったエジ友たちと、毎日エジプトのニュースに釘付けになっていたある日、アブド・ジダンというエジプト人男性から日本語で雑誌を作るから配布を手伝って欲しいというメッセージが届きました。彼は考古省のインスペクターで、勤勉で熱心な青年であるとの評判でしたので、配布を引き受けたところ、すぐに雑誌が届いて驚きました。それは「エジプト世界駅」という名のフリーペーパーで、エジプトと日本の架け橋となることを目指して作られました。私も、エジプト学の知識を活かせるならと、古代エジプトに関する記事を書いたり、校正をしたり、日本とドイツの読者に配布することで協力してきました。「エジプト世界駅」の配布を通じて、エジ友たちとのつながりが強くなり、新しいエジ友も増えてきました。同窓生の中にも「エジプト世界駅」を読んで下さっている方がいらっしゃいます。しかし、発行部数が少ないため、「エジプト世界駅」はエジプトと縁のない日本人にはほとんど届いていません。私はもっと多くの日本人にエジプトを知ってもらいたい。「中東」や「イスラム」や「アラブ」といった広範囲なひとくくりではなく、エジプト固有の魅力を知ってもらいたい。そう願ってやみません。

高校時代の一番鮮明な思い出は、星陵高校の図書室でミカ・ワルタリの『エジプト人』を見つけたことです。昭和三十五年出版の角川文庫の三巻からなる小説で、表紙にはツタンカーメン王の黄金のマスクの写真がありました。アマルナ時代前後に生きたシヌヘという医師が美しい人妻に全財産を巻き上げられた後、バビロニアやクレタなどの諸国を転々とし、最後にはかつての友人だったホレムヘブ王によって紅海沿岸の廃村に追いやられるという内容ですが、古代の文字史料が豊富な時代を扱っているので、歴史を生き生きと感じることが出来、とてもワクワクして読んだ覚えがあります。今も図書室にこの本があるのなら、是非後輩の皆さんにも読んでいただきたい本です。

最後に。文化講座で二回講演させていただいた上に、LINK星陵にも掲載していただき、同窓生の皆さんには本当に感謝しています。皆さんが社会の様々な分野でますます活躍されますように。ごきげんよう。

西村洋子のHP「古代エジプト史料館」→ http://www.geocities.jp/kmt_yoko/