「在米半世紀を振り返って」中谷 孝夫(高7)

先日、息子と孫を墓地に案内した。8年ほど前に、墓を購入したのだが、息子を墓地に連れて行ったのは、今回が初めてだった。50年前に、250ドルと大学院入学許可書をポケットに入れただけで、横浜港からシアトル行の貨客船に乗って、アメリカへ出航したのも、つい数年前の事のように思える。間もなく80歳になるが、昨年4月に、横浜港からカナダのバンクーバーへの17日間のクルーズに乗船した。50年前の貨客船の状況とは全く異なっていて、クルーズでの毎日は快適だった。アメリカで大学院を無事に終了して、念願のアメリカの証券業界で半生を過ごして、退職し、はや20年が過ぎた。車が主要な交通手段のアメリカ社会で生活し、今日まで大きな事故もなく無事に過ごせたのも幸運だと思っている。日本だと、各家に先祖代々の墓があるが、墓に関しては、個人主義のアメリカなので、自分の墓を購入するまでは、「あの世」へも行くことができない。

この話を親戚の者にしたら、「日本では70万円もする戒名代がないと、死ねないんですよ」という返事が来た。

8年ほど前に、新聞広告で、近くにある墓地に新しい形式のコンドミニアム方式の墓が売り出されていたので、これはいい機会だと思って、いろいろ調査をして、二人分を購入した。アメリカの墓地を見ると、広い敷地に墓石がいくつも並んでいる風景を見ると、いつも「荒涼とした感じ」がするので、あまりいい気持ちがしなかった。ところが、今回の墓は、屋内に相対する壁が造られ、四段になった納骨箱が並び、引出方式で、表に名前と生存年や写真が取り付けられるようになっている。その上、入口のドァーがカード方式になっているので、墓荒らしが出来ないようになっている。管理もスポンサーのカトリック教会が一切世話をしてくれる「永代供養」になっているので、安心だ。二人で9400ドルだが、売り出し期間中だったので、7900ドルですんだ。不動産価格が上昇しているアメリカの社会で、墓代がこの程度で済んだことに感謝している。僕は自然埋葬を選び、ワイフは火葬方式にしたので、かなりの節約になった。日本では、墓の維持管理費が高くて、いろいろ問題になっているが、この程度の価格で、維持管理費も含まっているので、大変いい買い物ができたと我々も喜んでいる。それに墓の開所式もカトリック教の形式で、華やかな儀式で行われたので、出席した我々も大いに感銘を受けた。

(屋外の墓地)

(墓の建物)

(納骨箱)

(納骨場の内部)

学校は、地元の星陵高校、神戸大学へ行ったが、大学院はシアトルにあるワシントン大学を選び、経済学を専攻した。その理由は、就職は、神戸市役所で6年間働いた。当時は「ドル不足の時代」で、1ドルが360円だったが、闇では400という値がついていた。神戸市がシアトル市と姉妹都市になっていて、シアトルから毎年英会話の教師が神戸市へ派遣され、中高校へ回って、英会話を教えていた。僕は彼等と友達になり、英会話を練習した。彼等は皆、地元のワシントン大学の出身者だった。その関係で、自然と留学先をワシントン大学にした。いくら日本で英会話を練習したとはいえ、現地での苦労は大変なものだった。1969年の春に、やっと大学院を修了して、修士号をもらった。

学校は終わったけれど、将来の計画は何もなかった。まず、日本へ帰るか、アメリカに留まるかを決めなければならなかった。せっかくアメリカまで来たのだし、もっとこの国を見てみたいという考えが強く将来計画の決定で重要な要因になった。ところが、当時のシアトルは大不況で就職口はなかった。当時、やっと東京から来たワイフと相談して、ニューヨークへ行こうということになり、家財道具を売り払い、車でアメリカ大陸横断の旅に出た。6日間のドライブの末、やっと友達のいるヒラデルヒヤに到着した。二晩そこで宿泊した後、目的のニューヨークへたどり着いた。

なぜ、ニューヨークへ来たかといえば、金融の中心なので、何とか仕事にありつけるのではないかという淡い期待感からだった。ニューヨークに到着した後、早速電話帳から、山一ニューヨークへ電話をした。運よく、同社も新規客開拓要員を探しているとのことで、意外にも早く就職口が見つかった。ところが、ウォール街での新規開拓という仕事は、もっとも難しい仕事だった。それでも、僕はウォール街がどのような組織になっているのか、どう機能しているのかを知りたいという強い衝動から、見知らぬ顧客候補者にどんどん電話をして、相手を訪問した。そうして、一年半程経つと、当時日本株に力を入れていたドレクセル社から証券アナリストでこないかという誘いがかかってきた。こうして、1975年頃、晴れて、念願のウォール街の証券アナリストになった。ところが、日本経済が高成長を遂げ、株価も高めに推移していたにもかかわらず、ウォール街の日本株にたいする反応は、きわめて弱かった。僕の判断は、どうしてもアメリカ株の専門家にならなければ、ウォール街ではやっていけないという点だった。そうして、5年ぐらい経った時、ミネアポリスにあるアメリカでも最大手の機関投資家のIDSから口がかかってきた。早速、面接を終え、日本株とアメリカ株兼用の証券アナリストになり、ミネアポリスへ移住した。そこでは、実は日本株とアメリカ株が半々ということだったが、僕はほとんどをアメリカ株に専念した。3年目で、30人ほどいたアナリストの中で成績が最高になり、ホーナスが本給ほど出た。アメリカのボーナスは、ほんとの意味でボーナスであって、ほとんどの人は貰えないわけである。そこで覚えたアメリカ株の知識は、今でも生きており、退職後の生活資金の助けになっている。Technology analystとして、勃興期のシリコンバレーを走り回ったのも、いい思い出になっている。

僕がアナリストとして働いていた時、アメリカン・エキスプレスがIDSを買収したので、正式には、アメックスで18年働いて、退職したことになっている。最後の10年ほどは、本社の社長の指示で、日本の資金の資産運用の助ける仕事を施与ということになったので、3か月に一度、年四回東京へ出張した。こういうことで、太平洋を70回ぐらい往復した。年に一か月以上泊まっていたパレスホテルにつけば、マネジャーが出てきて、「お帰りなさい」と言ってお辞儀をしてくれるまでなっていた。

アメリカの会社で働くメリットの一つは、いったん仕事に定着すると、長い休暇が取れることだった。僕の場合、年に2週間の休暇が2回取れることだった。それを利用して、できる限り、世界中を旅行して回った。おかげで、すでに100ヵ国以上を回り、外国語も英語、スペイン語、ドイツ語、フランス語、イタリー語、インドネシア語などを話すようになった。僕は、会話を中心の学習法なので、直ぐに使える点を考慮した学習方法である。文法と英作文中心の英語教育に飽き飽きした結果といえる。

今は、ミネアポリスの郊外にある高齢者用の住宅共同組合のコンドーに住んでおり、厳しいミネソタの冬を過ごしている。それでも春がくると、厳しかった冬のことを帳消しにするほど住み心地がいい。年に2回は長期の旅行をしているが、外国旅行は段々難しくなってきている。ここのコンドーには430人ほどの老人が居住しているが、平均年齢は84歳で、北欧系の白人が住んでいる。僕のボランティアー活動は、海外旅行をした後、そのスライド・ショウをするのが僕の仕事にしている。

1960年に、戦後15年を記念する論文大会が日本経済新聞社主催で行われた。丁度、大学を卒業して時間があったので、応募してみた。目の手術で入院中に、西村賢二君が入賞を知らせてくれた。1000人ほどの応募者があった論文大会で、僅か8人程度の入賞者であったが、僕にとっては、記憶に残る出来事となっている。上位の3者は、シドニー駐在の領事、他は著名な大学教授などで、大学卒の若造は僕が一人だったように記憶している。その後、大会には幾つか入賞した。2009年に、いわゆる「レーマン・ショック」が起こった時、「アメリカ発21世紀の信用恐慌」という本を日本で出版した。この本は、今でもアマゾン・ジャパンに載っている。この本については、権威のある学会誌にも書評が掲載されている。そのほかBINGで、今まで書いた論文が見られるようになっている。

在米32年たった時、英語の先生をされていた篠田時彦さんにお目にかかった。篠田さんはフルブライトでミシガン大学へ一年留学された。お会いしたと時、「中谷、お前、よくもアメリカに32年もいたなあ」と言われた。それから18年も経ったわけである。国語を教えておられ、後に九州大学の名誉教授をされている岡村繁さんには博多でお目にかかった。7回生では、一度だけ同窓会に出席した。同期生の吉岡昭一郎君には、神戸へ行くごとにお会いしていた。その後、ガンに罹られ、治療に専念しているとのメールがあった。小野敏郎君には、一度お会いして、神戸へ行くごとに電話はしていた。最後に、家が近所で、大学時代に一緒に無銭旅行をした柴田忠寛君と北原繁男君には東京で、何度かあった。大橋宏君とは、仕事の関係で何度か会う機会があった。早世した小坂晃司とは、海外で会う機会がなかったことは、残念でたまらない。海外で日本車を販売するという意気込みで、トヨタに就職したが、一年で早世してしまった。

80歳になって、過去を振り返る時、色々な賢者が「人生の計画」を立てよ、等と分かったようなことを言っているのを時々遭遇する。

僕の場合は、「行き当たりばったり」で人生を生きてきた。無計画というのも、困った時のやり方の一つだが、人に勧められない。今日まで無事に生きているのが不思議で仕方がないというのが、偽らざる本音というところだろう。それでも、80歳まで何とか生き延び、アメリカの優秀な医療機関によって、今日まで何とか生きてきたことを大いに感謝している。

2015年5月2日 ミネアポリス市 中谷 孝夫
taknasan@yahoo.co.jp