1941年(昭和16年)の設立時には校舎がなく、北長狭国民学校(現在の生田中学校)を間借りしてスタートを切りました。
3年後に現在の垂水中学校の敷地内にできた木造校舎に移転するも、校舎は軍に接収。
勤労奉仕、学徒動員で学業続行が難しい時期が続いたそうです。
終戦によりやっとのことで垂水校舎に戻るも、今度は原因不明の出火で校舎が全焼…
これでもか、これでもか…と言わんばかりに襲い続けた苦難を、団結して乗り越え、共に精一杯生き抜いてきたのが “四中”の先輩方だったのでしょうか。
四中発祥の地
神戸市中央区北長狭通り4丁目現在の生田中学校の南塀にこの碑が刻まれています。
ひざ丈のズボンからのぞいた幼い足が可愛らしい写真。これが兵庫県立第四神戸中学校の合格発表の風景です。
校庭の倉庫に張り出された合格者名簿の前に集っているのは、当然のことながら受験した小学生達…
考査方法は口頭試問と身体検査によるもので、現在のような筆記試験はありませんでした。数人の試験官に取り囲まれ、
生徒自ら机・椅子を大八車に積んでリレーで運び、書類など運べるものは風呂敷に包み国鉄に乗って、駅から学校までは徒歩で運んだそうです。
学徒動員
太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の年に産声をあげた兵庫県立第四神戸中学校。その歴史を辿る時、学徒動員を避けて通るわけにはいきません。垂水の自校でやっと授業を受けられるようになった矢先、時代は学徒動員を余儀なく実施していきました。生徒達は動員先で軍の監督下に入り、工場への出退時のみ学徒としての団結を許されました。
学徒動員とは太平洋戦争下における労働力不足を補うため、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料増員に強制的に勤労動員されたことをいいます。この時代の動きを拾ってみますと…
1941年(昭和16年)8月 文部省は中等学校以上の学校報国団再編成を指令 「学校報国隊の体制確立方法」が決定
11月 国民勤労報国協力令施行規則公布
1942年(昭和17年)5月 学生・生徒の農繁期勤労動員など種々の勤労作業が開始
1943年(昭和18年)5月 勤労報国整備要綱発表
6月 学徒戦時動員体制確立要綱発表
7月 女子学校動員決定
1944年(昭和19年)2月 「決戦非常時措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」が決定
1945年(昭和20年)3月 「決戦教育措置要綱」が決定
1938年の文部省通牒によって、学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することをすでに義務付けられていましたが、戦争の拡大によって軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年遂に内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。翌1944年には「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」で学徒全員の工場配置が閣議決定。さらに翌年の1945年には「決戦教育措置要綱」によって事実上学業は一年間停止。卒業者は勿論、上級校合格者も継続して学徒勤労総動員の体制がとられました。
兵庫県各中等学校に於いては、5年生の軍事工場動員に続き、4・3年生の動員、2年生の食料増産・防衛施設作業などの順に動員されていったようです。1944年6月10日には神戸市内及び近郊の中等学校以上の勤労動員学徒の壮行式が西代市民競技場で行われました。式では双発戦闘機屠龍や飛燕など数機が激励飛行したそうです。第四神戸中学校からは4年生(四中1回生)全員が参加しました。
第四神戸中学校に於ける学徒動員の記録を辿ってみますと、1944年6月21日から当時4・3年生である1・2回生が川崎航空機工業株式会社明石工場へ、1945年5月1日から当時3年生の3回生が国鉄鷹取工機部へ動員されています。
【四中1回生】 北条へ農業作業 社へ飛行場建設 川崎航空機工業株式会社 明石工場
【四中2回生】 嬉野及び三木飛行場建設勤労奉仕 川崎航空機工業株式会社 明石工場(飛燕・屠龍など戦闘機の生産)
※明石大空襲後は明石、茨木、高槻、二見、鳥羽の各工場へ疎開配転
【四中3回生】 国鉄鷹取工場 明石市林崎町陸軍高射砲陣地の構築
【四中4回生】 明石市林崎町陸軍高射砲陣地の構築 鷹取の専売公社
この混乱の中、3月27日に第四神戸中学校第一回卒業証書授与式が仮校舎南須磨国民学校の講堂で静かに行われました。父兄の参列はなく、入学時269名を超えた生徒は僅か185名。明石工場より配給された乾燥バナナひと袋が卒業生への唯一の引出物だったといいます。落ち着く校舎もなく、思いっきり勉強する権利も奪われ、人生で一番多感な時期を戦争一色で過ごして卒業されたことに胸が痛む思いがします。