「私の四中時代」村上卓彌(四中4/高2)

「私の四中時代」村上卓彌(四中4/高2)

人は一生安楽に暮らせることは先ず有り得ない。1度や2度は、全く過酷な場面に「遭遇」するものだ。この鉄則は私にも例外ではなかった。大げさかと思われるかもしれないが、最高に打って付けの「遭遇」が四中在学の四年間であった。

昭和19年4月、晴れて神戸四中、四回生として入学したが、当時は大東亜戦争の真っ最中で、日を経るにしたがって戦況は益々厳しくなり、翌昭和20年8月には、敗戦を迎えた。敗戦は、まだ幼かった我々にも大きなショックであったが、その後も過酷な状況は続いた。私は、昭和23年3月、四中を中途退学したが、当時、我が国は内外から最貧国と言われており、過酷な戦後が継続していたのである。

今思い出すこの間の出来事を挙げてみると
〇上級生の軍需工場への学徒動員。学舎は我々4回生だけになる。
〇海軍経理学校の垂水校舎接収。鷹取南須磨高等小学校校舎へ移転
〇相次ぐ勤労奉仕。高射砲陣地構築、戦災者救護、焼け跡資源収集、資材運搬など
〇空襲による級友被災と疎開者続出。終戦時に在校4回生は入学時の約半分。
〇空襲による鷹取南須磨高等小学校校舎全焼。
〇須磨浦学園校舎への移転。
〇敗戦により垂水学舎の移転。
〇終戦の約半月後腸チフスを発症、高熱と衰弱で生死の境をさまようも幸運にも回復。
〇垂水校舎の不審火による焼失と復旧。 経理学校の残したバラックを人力で移転、仮校舎設営。

といった 学業どころでなかった出来事ばかりである。何れも語れば長くなってしまうが10年前に記した昭和20年6月5日の空襲の拙文を紹介させていただく。

6月5日、この日は毎年のことながら私の誕生日の前日である。当然、今年もその翌日誕生日を迎え、目出度く(?)満73歳となった。
73年間には色々なことに遭遇して、その中にはもう記憶が定かでないものも多いが、6月5日に出くわした2つの事件については鮮明に覚えており、おそらく今後も意識の確かな限り、忘れることはないだろう。

その一つが、昭和20年の神戸大空襲である。頭上のB29から焼夷弾が降って、辺り一面轟音と白っぽい煙に包まれたこと、近くの垂水小学校高丸分校(現在の高丸小学校)が被弾し2棟の2階をつなぐ渡り廊下が火炎に包まれながら落下したこと、更に翌日、登校するにも電車は須磨までしか通じず、須磨から友人たちと鷹取まで歩き始めたが、離宮道の跨線橋の頂上まで来たとき、東方の市街は一望する限り焼け野原と化していたのには思わず息をのんだ。また、更に若宮小学校に行くまでの道端には黒こげの死体が数多く転がっていたことなど、今尚、脳裏に焼き付いている。

戦争の悲惨さ、一日にして灰燼に帰した人の営みの儚さ、死体の様態など、中学2年の私に少なからぬ一節を刻んだ。実は今朝、日経新聞で陳舜臣氏の「私の履歴書」を読み、同じ時と場所を経験した人(陳舜臣自身)がいたことに驚くと共に、沿道の焼け焦げた遺体の詳細な記述を読み、陳氏も生涯の履歴に入れる重い出来事として残ったのだろうと些か感慨に耽った。」

ところで学業の方は、入学当時、英語、漢文、代数など新たな教科に戸惑いながらも、先生方の熱心な薫陶で勉学に専念できたと思う。戦時中、英語が敵性語として教育されなかったなど昨今でも言われるが、そんなことは皆無で、むしろ1学期は発音重視の英語入門をみっちり教え込んでいただいた。しかし、戦争が激化してからは、勉学もままならぬ日々の連続で、戦争が終わったとき4月から英語教科書は僅か1ページ半しか進んでいなかった。先生方のご苦労も想像に絶するものがあったと思われる。また敗戦による社会観の一変は我々に迷い、不信、希望を次々と経験させられたものである。将に、激変の時代の四年間であった。その後、進学を経て社会生活を重ねて今日に至るが、今振り返るとこの四年間に、今日でいう「General Education」を立派に授けられたのではなかろうか。国家の興亡、人間の醜さと生死、幸福と不幸、飢えと耐乏を学業と同時に経験し、人格形成に大きな影響を与えてくれたと思っている。

余計なことかもしれないが、近時、高校時代から[理系]と「文系」を決めて学業の種別を限っているのは、本当に情けなく思う。更に、いろいろなことを学び、迷い、その上で自己の進む道を決めるのが、人生のあるべき姿と信じている。 平成16年6月13日      (完)