「人生未だ珍道中」佐久間 寛子(高35)

こんにちは。35回生の佐久間寛子と申します。

「LINK星陵」のコラムをいつも楽しく拝読しています。皆さん素晴らしい内容なので、行き当たりばったり人生のこんな私が登場してしまってよいのかしらと思いつつ、折角頂戴した機会に感謝して書かせて頂く事にしました。

タイのバンコクに暮らしてあと数ヶ月で丸10年になろうとしています。同居人であるアメリカ人婚約者の希望で、3年前からは神戸にもマンションを借り、タイと日本に数ヶ月ずつ滞在しては行き来する生活が続いています。海外に全く関心のなかった私が何故タイに魅せられ、アメリカ人と暮らすようになったのか、振り返ってみると、一見バラバラに見える出来事や人との出逢いが、全て繋がっているように思えます。長くなりますが、拙い文章にどうかお付き合い下さい。

私は父が転勤族だった為、舞鶴市の府立高校合格後に神戸に引っ越しが決まり、入学式直前の編入試験でどうにか星陵高校に入学を許可されました。ところが入学直後から授業について行くのが大変で、阪神間に住むのは小学校低学年以来だった為、関西弁にも戸惑い、なんとなく暗く沈みがちな日々でした。そんな姿を見かねた同じクラスの藤本美香さんが誘ってくれて、コーラス部に入部したと記憶しています。

コーラスと言えば「翼をください」のようによく知られている曲を合唱に編曲して歌うイメージしかなかった私。入部して最初に楽譜を渡されたのが確か「秋の女(おみな)よ」という、佐藤春夫の詩を作曲家の大中恩が合唱の為に書きおろした曲でした。当時15歳の私にとっては感情移入しづらい難解な詩でしたが、指導して下さる先輩方が同じ高校生とは思えないほど大人に見えて、最初は憧れ半分で練習に参加していたような気がします。

その後、合唱組曲はじめ黒人霊歌、ポップス等、コンクールやコンサートに向けて様々な曲を練習するにつれ、合唱の面白さに目覚めていきました。声の通らない私は、学業同様コーラス部でも落ちこぼれ気味だったと思います。それでも3年間辞めずに続けられたのは、下手なりに歌う事が好きだったのと、練習計画メンバーのリーダーシップに個性豊かな先輩後輩との大家族のような関係、そして何と言っても同期14名の仲間のお陰です。

高校を卒業してからの30年間は、大まかに分けて神戸市での郵便局員時代10年、愛媛県新居浜市と大阪市での結婚生活10年、そしてタイに移住してからの10年と、偶然にも10年毎に転機が来ているようです。

夢見る夢子だった私は、進学するなら文学部、などと漠然と希望していたのですが、実家から通えて願わくば国公立大学という経済的事情に学力が遠く及ばず、受験した2校共落ちてしまいました。この現実を見越しておられた担任の清水先生の勧めで、先に郵政省職員試験に合格していたので進学は断念、神戸元町郵便局に配属されました。仕事は主に郵便・為替貯金・簡易保険という三事業の窓口事務と営業目標達成の為のセールスです。営業時間内はお手洗いに行くのも憚られる程の忙しさでしたが、様々なお客様と接するのは楽しく、引っ込み思案だった私が人との出逢いを楽しめるようになったのは、当時の窓口業務のお陰かも知れません。

音楽好きだった私の楽しみは、仕事帰りのライブハウス巡りでした。ある時、生田神社横のライブハウス「チキンジョージ」で郵便局のお客様を客席に見つけ、ご挨拶したのですが、まさかその同じテーブルに座っていたお客様の友達が自分の夫になるとは、勿論その時は夢にも思いませんでした。

月に2回ほど四国から関西へ音楽を聴きに来ていた彼と、その後度々ライブハウスで出くわす事になるのですが、彼が特に惚れ込んでいるミュージシャンが、私の知らない豊田勇造という人でした。京都を拠点に日本中を旅しながら年間100本以上のライブをこなす、タイに住んでいた事もあるシンガーソングライターです。最初に聴いた時はピンと来なかったのですが、タイの暮らしを歌った様々な曲が徐々に心に沁みるようになり、ひいてはタイという国にも興味が湧いてきました。

そして当然のように新婚旅行はタイへ。28歳にして初めての海外旅行でもありました。当時の私は今と違いパクチーも辛いものも苦手で、タイ料理が美味しく食べられませんでした。それでも勇造さんの曲「チャオプラヤ河に抱かれて」の歌詞にあるように、タイ人が「楽しむ事の達人」である事を実感し、「アジアの子供に返り始める」気分もちょっぴり味わい、いつかまた絶対に訪れたい、その時は少しでもタイ語が話せるようになっていたい、と思ったものです。

結婚後の新居浜市にはたった1年暮らしただけで、夫が大阪へ転勤になり、関西へと舞い戻って来ました。大阪でタイ語を習い始めた私は、いくつもの派遣会社に登録し、2週間から半年の短期契約の仕事ばかり選ぶようになり、旅費を貯めては1人でタイと隣国ラオスを旅するようになりました。元々山岳民族衣装やアクセサリー、手織り布等のハンディクラフトが好きで集めていた事もあり、手ぶらで帰国するのは勿体ないので、そのうちにフリーマーケットに出品する為の雑貨も買い付けがてらの旅となりました。

しかしタイ語の方は、週に1回のグループレッスンだけで日常使う機会もなく、なかなか上達しません。なんとか読み書きまで進んだ時、どうしても一度タイに住んでみたい、そしてタイ語学校に通いたい、と強く思うようになりました。夫に一緒にタイに引っ越そうと持ちかけましたが、タイ好きな彼もさすがに移住するほどの気持ちはなく、何度も話し合った結果、円満離婚して私ひとり移住することに。

2004年1月のお正月明け。なけなしの貯金とスーツケース一つでバンコクのドンムアン空港に降り立ちました。定宿にチェックインした後、アパートとタイ語学校を足で探し、私の語学留学生活が始まりました。38歳の時でした。

通っていたタイ語学校はレベル1から6まであり、各レベル末に進級試験があります。

私はレベル4から始め、その後「社会問題」や「新聞」などの自由選択コースをいくつか学んだ後、タイ文部省主催で小学校6年生程度のタイ語力を認定する外国人向けの「ポーホック試験」受験を目指し、対策コースを経て無事合格する事ができました。

学校の規模が小さいので、休憩時間にロビーで他のクラスの人達とも自然と交流するようになり、よく大勢でお昼ご飯を食べに行きました。様々な事情でタイ語を勉強している国籍も年齢もバラバラの人達との交友は、それまで海外に暮らした事のなかった私にとって、刺激に満ちてワクワクする体験でした。

先生はレベル毎に変わりましたが、一番よくお世話になったのは、私より一回り年下(当時26歳)の男の先生でした。その先生は、副業でクラブのDJもしていて、大学では生物学専攻だったという個性的な青年でした。先生なのに時々寝坊して遅刻してきたり、教室に水槽や植木鉢を持ち込んで、金魚や観葉植物を愛でながら授業をしていました。タイ人らしく小さな商いが大好きで、学校のロビーに冷蔵庫を設置してアイスクリームを売ったり、田舎から手織り布を送ってもらい生徒に売ろうと試みてことごとく失敗。そんなマイペースな先生ですが、授業は解り易く、タイ語だけでなくタイの文化習慣について色々な事を教わりました。

例えばある日、「タム・ブン(功徳を積む=寄進・出家のみならず善行すべて)した後、その事について 『これでよかったのかな』と迷ったり、『これをしてあげたんだから、相手もこうしてくれるべきなのに』と思った時点で、 それは徳を積んだ事ではなくなります。」 と言われました。これは国民の多くが上座部仏教徒であるタイ人ならではの考え方とも言えますが、その方が自分自身も楽になる、と教えられた気がしました。善行に限らず、タイではよくも悪くも物事に執着しない人が多いようです。何事もスムーズに行く事が少ないタイ暮らしで、最初は予定が狂う度にストレスを感じていましたが、そのうちイライラしても何の解決にもならないどころか、大人気ないと見なされると知り、「相手が気楽にしていれば、こちらも気を遣わないで済む。また自分が気楽にしていれば、相手も楽になれる」タイスタイルに馴染んでいきました。お互いがきっちりしている事を求められる日本社会とは対照的と言えるかも知れません。

ポーホック受験後は一旦日本に帰国するつもりだったのですが、すっかりタイの水が合い、日本語教育能力検定の資格を生かして日本語を教え始め、午前中は、半年間毎日英語学校に通う事にしました。国際都市バンコクには、世界中から来た人々が住んでいます。英語を勉強しようと思ったのは、日常生活でタイ人・日本人以外の人達とうまくコミュニケーションできず、じれったい想いをする事が重なった為です。あんなに苦手だった英語ですが、タイ語同様、実際に伝えたい事があると必死になれるようです。未だに日本語風英語ではありますが、「英語圏の人に話しかけられませんように!」というコンプレックスだけは克服する事ができました。

そのお陰かどうかは解りませんが、そうこうするうちに今のパートナーと知り合い、超遠距離交際が始まりました。テキサスの州都オースティン在住で、既に仕事をリタイアしていた彼は、数ヶ月おきにタイに来ては2ヶ月程滞在、一方私は、日本語学校の学期休みなどを利用してアメリカに会いに行くという生活が暫く続きました。

タイに魅せられて以来、アジア一辺倒でアメリカには全く関心のなかった私ですが、彼の住んでいたオースティンに何度か滞在して以来、アメリカ・・というよりオースティンが大好きになりました。

オースティンは音楽の都と呼ばれていて、ダウンタウンの6thストリートにはライブハウスが延々立ち並んでいます。”Keep Austin Weird ~Support Your Local Businesses~” (ローカルビジネスを応援して、オースティンを風変わりな街のままにしておこう)というスローガンに相応しく、変わった事、奇抜な事が大好きな人が多く移り住み、全米チェーン店に負けず地元の個性的なお店が輝いています。保守的と言われているテキサス州では珍しく、リベラルな気風の溢れる街です。

その後、私は現地採用社員としてタイの日系企業に勤めていた時期もありましたが退職し、彼はオースティンの家を引き払い、2人でバンコクと神戸に暮らす事を決め現在に至っています。

日本とタイ、そして彼の故郷であるアメリカ、それぞれに魅力的な部分と苦手な部分がありつつも、そこに暮らす人達との出逢いは私にとってかけがえのない人生の一部です。人生後半の旅は、どんな珍道中になるやらですが、これからも国籍に関わらず文化習慣や考え方の違いを楽しみながら、互いに影響しあえるような人との出逢いがあれば幸せだなと思っています。同窓会役員・理事の方々のお陰で拡がりつつある、星陵高校卒業生の皆さんとの再会や新たな繋がりも、その大きな楽しみのひとつです。