「星陵高校の思い出」中村康彦(四中4/高2)

「星陵高校の思い出」中村康彦(四中4/高2)

昭和19年県立神戸第四中学校に入学、4年次(昭和23年度)、学制改革により新制高校(星陵高校)2年編入、同25年3月卒業した。

”四中時代の苦悩の道”
とくに四中時代は戦時中で、明石林崎の高射砲陣地づくりの土のう運搬作業に従事した。
途中、昭和20年3月17日の神戸大空襲により、但馬に疎開し、豊岡中学に編入した。戦時のため、勤労奉仕の毎日。
航空機の代替燃料として松根油を精製するため、松の木を大型ノコギリで切る作業ばかりで、雨天のみ授業があった。
地元の生徒は体力もあり作業も捗ったが、疎開組はノルマが達成できず、よくイジメにあった。
休日は農作業の手伝いで、田植え、草刈、作物の採り入れなど、これも重労働だった。
終戦になり、20年9月には早々と四中に復帰した。しかし、建設中だった校舎が火災で消失し、バラックの仮設に移ったが、隣のクラスの授業と複そうして、落ちついた授業は適わなかった。そんな境遇の中でも文化祭や運動会は活発にやっていた。
また、クラブ活動も盛んになり、特に野球部などは甲子園大会復活に向けて対外試合に積極的だった。課外では出身地区ごとにチームをつくり、リーグ戦を行い、野球新聞をつくり、戦績やチームのエピソードなどを登載して喜ばれたものだ。
さて、23年には学制改革により、新制高校になった。しかし、旧制と新制が並用され、四中4年で旧制高等学校に進む者、そのまま旧制中学で卒業する者、新制高校2年に編入する者などに分かれた。

”新制高校への道”
ところで、新制高校は、男女共学でスタートする筈だったが、四中も、合併相手の第四女学校も、校舎がないため合併できず、私たちは立派な校舎のある県立商業学校と合併することになり、普通科と商業科が併設された星陵高校が誕生した。しかし、のちに商業科は独立し、私たちは旧県商の校舎に残り、卒業まで過ごした。

“星陵台の貴婦人”
普通科も独立し、新校舎建設が待たれた。当時、県営繕課OBの話では、平成4年に、ギリシャ神殿の柱列のあるホール、両サイドにはアーチ型の外回廊のある校舎が囲み、その中庭は中世のイタリア庭園を思わせる空間で、生徒・地区住民からもやすらぎの場として好評である。
これを設計したのは、県営繕課の大山技師で、その卓越した文化的センスはすばらしいものだった。優雅な学舎は文部大臣表彰も受けた。まさに星陵台の貴婦人である。
1993年 公立学校優良施設として『文部大臣奨励賞』を受賞、設計は大山 章(おおうえ あきら)さん

”同窓会館「星友館」の建設”
また、平成16年に完成した同窓会館であるが、同窓会理事で建設担当となった私は、当時の永幡校長・後任の延藤校長とも相談しながら、同窓会長の吉岡さん、副会長の中村さんらと他校の視察、建設・設計会社からの提案などを参考に基本設計が出来上がった。
いざ建設に当たっては、用地が隣接する住宅の方々との話し合い、地盤の強化や環境整備を行った。建設の内容・機能とも、キャンパスの雰囲気を壊さないように心掛けた。
そして、懸案だった「星友館」が完成した。1階は講演会や文化的行事に使える多目的ホール、2階の会議室に向かう廊下の壁面には、同窓で先輩でもある石坂画伯の大作が、会館の象徴として異彩を放っている。
この上は、学校、同窓会、生徒会、PTA、自治会ともども、施設の活用を願う次第である。

(完)