「出会いに感謝!」大木 一仁(高42)

42回生の大木一仁と申します。後輩から執筆の依頼の話が有り、受けようか迷いましたが、自分自身の事について文章にすることはなかなか無く、形にすることによって、自分自身を見つめ直す事にもなると思い、受けさせて頂くことにしました。拙筆ですが、お付き合いいただければ幸いです。

担当の方からは、「阪神タイガースの通訳として心が一番動いた瞬間」と「高校時代の一番鮮明な思い出」というお題を頂きましたが、星陵高校での一番鮮明な思い出がなかなか思いつかず、阪神タイガース通訳となった経緯や現在の仕事について書かせていただきたいと思います。

大学卒業後、日本で社会人として約3年間大阪で勤務していましたが、ひょんなことからアメリカへ行くことを目指すこととなりました。

会社員時代に英会話学校に通っていましたが、その当時の講師との会話で将来の夢の話になり、どういう訳かアメリカメジャーリーグの球場でグランドキーパーをやりたいと口走っていました。そこから、どうすればアメリカ球界で働くことが出来るのかを考えるようになりました。もし、この講師と出会ってこのような会話をしていなければ、今の自分はいなかったかもしれません。失礼ではありますが、名前も顔も思い出せませんが、アメリカに行くきっかけを作ってくれた英語講師には感謝です。

今から18、9年前で、まだパソコンもそこまで普及していたわけでもなく、情報収集するのにも苦労しましたが、大学(院)に留学し、インターンとして現地チームで経験を積み、フルタイムの仕事に就くというのが私にとって一番の近道だという結論に至り、早速学校選びに入りました。留学雑誌やインターネットの情報からスポーツ経営学という学部がアメリカにあり、そこでスポーツに特化した経営を学び、スポーツ業界で働くという道がある事が分かりました。もともと野球が好きで野茂投手がアメリカに行き始めた頃にはBSでメジャーリーグ中継を見ていましたし、調べていくうちにプロチームの経営に関わってみたいという思いが強くなり、卒業生がアメリカ野球界で働き、しかも入学のハードルがそれほど高くない大学院を選ぶことにしました。

アメリカを目指すとは言ったものの、英語力はかなり低く、留学生向けの英語力の入学基準となるTOEFLですら、希望する大学院の要求する点数をクリアできず、仕事をする以前に、入学すら実現できるのか、といったところからのスタートとなりました。2か月の短期語学留学を経て、ついに念願の基準点に到達し、やっと入学許可を得ることが出来ました。その時、既に27歳。遅めの留学、そして留学後の現地採用の見込みも全くない状況での不安ばかりの日本出発となりました。周りからはかなり無謀だと思われていたようです。

アメリカ野球界で働く夢いっぱいで、アメリカの地を踏みましたが、大学院での最初の授業で、教授の言っていることが全く理解できず、意気消沈したことは今でも記憶に残っています。妻を伴っての留学でしたので、こんなところで挫けるわけにもいかず、また私の無謀な挑戦にも拘らず、常にサポートをしてくれたので、毎日、延々と本と辞書とにらめっこしては、授業で録音したテープを何度も聞き返すことを繰り返し、何とか卒業まで漕ぎ着けました。その一方で、念願のインターンシップをコロラドロッキーズ傘下3Aチームでする機会を得ることが出来ました。私の英語力では到底仕事が出来るレベルではなかったと思いますが、どうしてもアメリカ球界で働きたいという強い思いが通じたのか、若しくは、無給でアメリカの田舎町で働こうとする日本人が珍しかったのか、奇跡的にインターンとして採用して頂くことになりました。採用に当たった担当者は日本語を少し話すことが出来、英語もろくに出来ない私に丁寧に仕事の説明をしてくれ、親身になって相談に乗ってくれました。この方とは後に公私ともに仲よくすることになり、運命的に出会えた人の一人だと思います。

無事に9か月間のインターンシップを終了し、当時のGMが日本びいきであったこともあり、奇跡的に正式に正社員として雇っていただけることになりました。一番のネックは就労ビザでしたが、チームの同僚の兄が移民弁護士をしていたこともあり、これまた運よくビザに関してもスムーズに事が運びました。このチームのGMがこの方であったこと、また移民弁護士の弟がチームで働いていたこと、偶然ではありますが、この二人との出会いも私がアメリカで働くことを導いてくれた方達です。

マイナーリーグの職員は一つの業務に専任するのではなく、仕事が多岐に渡り、私の場合もチケット販売から、スポンサー獲得、またプロモーションのアシスタントやマスコットの着ぐるみに入ることもありましたし、雨が降ればグランドにシートをかぶせたり整備を手伝ったりすることもありました。

インターン時代を含めて5シーズン働きましたが、毎年のように日本のプロ野球チームのスカウトが外国人選手のチェックのために私の働く球場に視察に来ていました。最後のシーズンとなった2005年には、阪神タイガースの渉外担当が球場を訪れ、話をする機会がありました。採用してくださったGMがチームを去り、私のビザの更新も怪しい状況になりつつあったため、2005年を最後に日本に戻ろうかと妻とも話をしていた中で、阪神タイガースがシーズン終了後に通訳を募集する可能性があるという話をその時に聞きました。その渉外担当の方とお会いする前に、阪神タイガースの社長宛に2軍チームの運営に興味がある旨の手紙を送っていたこともあり、私の事は既に知っていたので、通訳の話を持ちかけていただいたようです。

他の日本のチームとも同時に話をさせて頂いていた中、10月に日本に帰国しましたが、他チームとのご縁は無く、野球界以外でも仕事を探さないといけないと考え始めた頃に、阪神タイガースから通訳面接の話が飛び込んできました。アメリカ野球界では働いていたものの、星陵高校時代はラグビー部、それ以前も以降も本格的に野球をしたことは無く、また通訳の経験も無かったので、不安いっぱいでしたが、またも奇跡的に採用となりました。もし、アメリカでタイガース渉外担当の方と出会っていなければ、このような話も無かったのではと思うと、その方との出会いもまた運命的ではなかったかなと。今は私の上司です。

2006年シーズンから阪神タイガースの通訳として働くことになりました。その前約6年間はアメリカに居ましたので、どちらかというと日本人選手より、メジャーやマイナーの選手の方がよく知っていたので、選手を見てもそれほど興奮したことは無く、私の子供のころに現役選手だった方々がコーチになられていたので、コーチと話をした時の方が喜びが大きかった気がします。しかも子供の頃は阪神タイガースのファンではなく某関西球団のファンであったため、ミーハーなファン感覚で仕事に取り組むことが無かったことも仕事を始めるにあたって良かったかもしれません。

1年目という事もあり、最初はファーム、2軍担当通訳としての勤務となりました。高知安芸での春季キャンプ中に外国人選手の一人が怪我で離脱したのに合わせて、一緒にファーム行きとなり、怪我が治るまでのリハビリ期間を共に過ごし、1軍復帰と共に2軍に外国人選手がいなくなったため、私も1軍に帯同となりました。その後は外国人選手が常時2軍にいる状態で、ファームでの勤務が続きましたが、シーズン中には通訳の入れ替えもあり、8月からは1軍通訳として残りのシーズンを終えました。やはり、球場の雰囲気が全く違い、初めてヒーローインタビューをした時は極度の緊張感で臨んだことを覚えています。

2006年シーズン終了後に私以外の2名の通訳が球団を去った為、翌2007年からは1軍、野手担当の通訳となり現在もそれは続いています。野球経験がないため、野球用語やルールで戸惑うことは時々あります。日本語でもチームプレー等で独特の野球用語があるために、理解不能でコーチや日本人選手に説明を求めることもよくありました。また、英語でも野球用語があるため、外国人選手に聞くことは多々ありました。現在でも、日々勉強で、外国人選手同士が話す単語をよく聞いて、自分が後で使えるようにノートに書き留めることは通訳1年目から変わらず続けています。

2014シーズンはタイガースに入団して9年目となりましたが、私にとって初めての日本シリーズ出場となりました。私の入社前年の2005年にセリーグ優勝を果たして以来、一度も優勝をしていなかったので、“大木の呪い”みたいなことを周りから言われることもありました。昨年優勝はしていませんが、宿敵巨人をクライマックスで倒して日本シリーズに出場できたので、呪いの半分は解けたのではないかと勝手に思っています。

9年間通訳をさせて頂くと、数多くの外国人選手と一緒に働いてきたことになります。2月のキャンプから始まりシーズン終了の10月、11月まで、月に1,2日の休みはあるものの、ほぼ毎日顔を合わせ、顔を見るのも嫌になるくらい一緒に長い時間を過ごすことになります。グランドでの通訳業務だけでなく、練習中のキャッチボール相手(素人には非常に怖い!何度も硬球を体にぶつけています)、ミーティング資料の英訳、テレビや新聞取材のスケジューリング、遠征先での食事、また家族のいる選手であれば子供が病気をすれば病院への同行等と、いわゆる“通訳”という仕事は数ある業務の中の一部で、どちらかといえば選手のマネジャー的な存在だと思います。1年と経たずに帰国する選手もいれば、何年にも渡って活躍を続ける選手もいます。その中でも印象に残る選手は2名います。ひとりはアンディ・シーツという選手。もう一人はマット・マートンという選手です。

シーツ選手は私が通訳1年目に一緒に仕事をした選手で、前年のセリーグ優勝に大きく貢献し、その後2007年までタイガースでプレーし、引退しました。現在はタイガースの駐米スカウトをしています。私と同い年という事もあったかもしれませんが、なぜか気が良く合い、1年目に私がシーズン途中に1軍に呼ばれたのも、彼からのリクエストがあったと後から聞きました。

とにかくいたずら好きで、日本人選手にもいつもいたずらをしてチームにうまく溶け込んでいました。緊迫した場面でも、それは変わらず、ピンチにマウンドで私が投手コーチの指示を通訳している時でも、いたずらな笑みを浮かべてちょっかいを出し、次回私がマウンドに上がるときは、投手を笑わせるために、こういう事をしようと事前に打ち合わせをしたこともありました。実際に笑わすことが出来、その投手もその後リラックスして投げることが出来たと思います。真剣な中にも常に遊び心を持って仕事をエンジョイすることを教えてくれた選手でした。

もう一人がマートン選手。2015年、タイガースで6年目を迎えます。私が通訳をしてきた中で、一番長く担当をする選手です。来日1年目の2010年にイチロー選手が打ち立てたシーズン最多安打を塗り替える大活躍をし、その後も毎年のようにヒットを打ち続け、昨年はセリーグ首位打者となり、プロ野球歴代外国人選手の中でもトップの一人だと思います。とことんまでバッティングを追及するプロとしての姿勢を見せてくれ、今までの外国人選手とは一味、二味も違い、相手を分析するだけでなく、自己分析にも長けた選手です。プロ意識の高さからか、勝ちに対する執着心からか、グランド上ではエキサイティングなプレー・行動を取りますが、日常は周りに対して気配りのできる人格者で、私より10歳若いですが、見習うべきところはたくさんあります。

たくさんの外国人選手と接してきましたが、彼とは一番話をしたのではというくらい長い時間を過ごしています。野球素人の私に対して、ビデオを見ながら平気で2時間、3時間と試合後夜中に打撃理論を話し、私の野球英語力は彼のおかげでかなり伸びたと思います。素晴らしい成績を残しながらも、1年目も今も変わらず、我々と同じ目線で話をしてくれ、我々の話にもきちんと耳を傾け、敬意を持って接してくれます。これだけ長く居れば、時には彼とは衝突することもありますが、お互いに信頼感も出て、言いたいことも言い合える良い関係を築けているのではないかと思います。

東京ドームで行われたジャイアンツとのクライマックス。誰もが巨人相手に4連勝するとは思っていなかったと思います。流れに乗っていたとはいえ、勢いが止まらずに巨人を圧倒した戦いぶりに、ベンチに居て、負ける気がしませんでした。先ほども書きましたが、9年目にして日本一へのチャンスが巡ってきました。自分がプレーするわけではありませんが、やはり勝負にこだわった中で仕事が出来る醍醐味は素晴らしいものです。今後はどれだけ通訳として仕事を続けていけるかは分かりませんが、これからもいろんな方との出会いがあると思いますし、振り返った時にあの人との出会いによって人生が変わったといったことがあるかもしれません