平成28年度人権学習「戦争体験談」内容

平成28年12月8日、母校多目的ホールに於いて「人権学習講演会」が開催され、星陵高校の前身である兵庫県立第四神戸中学校2回生が講師を務められました。

そのうちのおひとり、三木公輔さんの講演内容をご紹介します。

 

明石の大空襲 作戦コード名「フルーツケーキ1号」
-少年Kの空襲体験-

昭和20年8月に日本の国は大東亜戦争に敗れました。それ以来、日本国民は決して戦争をしないという憲法を大切に守り、
世界中が平和になるために努力を続けて来ました。
私の体験を通じて戦争がどれほど恐ろしいものであるかを皆さんに知って頂き、今後世界中の人々と仲良くすることが
本当に大切であることを理解して頂ければ幸いです。                   

三木 公輔(四中2)

 

 

 

 

 

 

 

昭和20年1月19日、その日明石の空は青く澄みわたり、白い雲が所々に浮かぶとはいえ真冬にしては珍しく穏やかな空気に包まれていました。時折冷たい北風が頬を撫でるものの、戦況厳しい中とは思えないほど静かな午後の時間が流れていました。

その前年、昭和19年の初夏、私達兵庫県立第四神戸中学校3年生と4年生の生徒は初めて学徒動員に駆り出され、三木市の西部で飛行機作りに従事。引き続き西明石の川崎航空機工業(株)明石工場(今の川重バイク工場)に学徒勤労報国隊の一員として配属され、最新式の陸軍三式戦闘機「飛燕(ひえん))」(米軍の識別名トニー1)の発動機(エンジン)の生産に従事することとなりました。

飛燕は日本で初めての液冷式逆V型12気筒発動機(ハ‐40)を備え、離陸時出力1,175馬力、時速590㎞、航続距離1,800㎞、最高高度10,000mという当時としては画期的な性能を誇り、アメリカの「最新の超重爆撃機B29」に対抗できる最有力の戦闘機として活躍していました。

私はこの発動機工場で微用工のおじさん達と共に懸命に働き、何機もの飛燕をセンチに送り出しました。秋からは10時間2交代制で夜間勤務も命ぜられ、フル生産に入りましたが、暫くするとエンジン本体の主要部分を占めるシリンダー素材の入荷が少なくなり、作業の手待時間が生じるようになりました。

昭和20年の年が明けた頃には、今日は何をすれば良いのかと思うような日が度々訪れ、飛行機の作れない今の状態ではこの戦争の先行きがどうなるかをある程度想像できる程になりました。

1月19日、私と同僚3名はその日の午後、工場から外に出て防空壕堀の作業をするよう命じられました。その頃西明石駅の北側には家が僅かしか無く、なだらかな丘陵地帯が北に向かって延び、顔を南に向ければ、通い慣れた発動機工場が眼下にパノラマのように拡がり、素掘りの防空壕(深さ1m、幅1m、長さ3m)があっちこっちに掘られていることを除けば、穏やかで長閑な一幅の絵を見るようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで同じ職場の3人の学徒と壕掘り作業に生を出している時、突然悲しげなサイレンの音が辺りの空気を震わせて鳴り始めました。長くうなり続ける警戒警報が鳴り終わって30分もしない内に忙しく断続的に何回もなって急を告げる空襲警報。一瞬の内にこの世の地獄が目の前に繰り広げられることになったのです。

この日、マリアナの基地を出発した空飛ぶ超要塞B29「スーパーフォートレス」80機の内、63機からなる編隊は、作戦コード名「フルーツケーキ1号」という「飛燕のエンジン製造工場を壊滅させるためのこの作戦」を決行し、明石地域を500ポンド(225㎏)高性能爆弾で襲ったのでした。高度8,000m程で神戸方面から侵入したB29は高射砲の砲撃も日本の戦闘機の追撃も受けること無く、午後2時50分頃爆音を響かせながら明石に接近しました。

私は先頭の1機(指揮官機)から突然シュルシュルと耳をつんざくような音を立てながら、氷のように白い魂が閃光を発して落下してくるのを見ました。それを合図に「航続62機」の内の「第1波7機」が機体の下から真っ黒な爆弾をバラバラと撒き始めたかと思うと、それらは自分が昼過ぎまでそこにいた工場に向かってヒュルヒュルと落下音を立てながら吸い込まれるように落ちて行きました。ズンズンズンと地響きして身体が揺すられると同時に、ドカンドカンという轟音が耳をつんざきます。

「第1波」は明石工場に総てを集中して通過しましたが、「この次はこちらに向かって来るかも知れない」と気が付いた私は慌てて山の方に向かって走り始めます。

直ぐに「第2波8機」が来ます。

またもやヒュルヒュルヒュルという不気味な落下音と共にズンズンズンと爆発音が後から自分を襲って来ます。目の前の素掘りの壕に飛び込み、普段から教えられていた通り地面に伏せ、両手で耳と目と鼻を押さえ、死んでも命があるようにと祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

ズンズンズン!「この次はここだ」と思った瞬間、ぴたりと爆発音が止みます。「助かった」と分かってまた走り始め、「第3波17機」の落下音が追いかけて来るとまた近くの壕に飛び込みます。漸く崖の下に掘られた横穴壕に辿り着き、満員の壕の中に潜り込みます。

 

真っ暗でお互いの顔も分からない内に「第4波30機」が来ました。今度はズンズンズンではなく、ドカーンという轟音と同時に壕全体が大地震のように揺れ、背中が土壁にギシギシこすりつけられたかと思うと、ぐるりから土の塊が音を立ててバラバラと崩れ落ちました。至近弾です!直ぐ近くの横穴壕がやられたのでした。これを最後に「610発の爆弾」を投下し終えたB29は去って行きました。

この空襲による工場内での死者は268名。明石市の一般人の死者は71名。至近弾を受けたあの横穴防空壕での死者は和歌山の田辺家政女学校の生徒12名。神戸野田高女の生徒1名でした。

長い長い「34分間の出来事」でした。

職場で作業をしていた同級生達は空爆の少し前に工場の西の外れにある暗渠の防空壕に避難しましたが、的を外れた爆弾が作ったクレーターのそばで土砂の下敷きになり、3人が即死、数名が大怪我をしました。

私はその集団と別行動をとり、点呼の際にその場にいなかったため、自宅には「本人行方不明」との電話連絡が入りましたが、家族は為すすべも無く、ただ諦める他ありませんでした。一方、私は何とか工場の近く迄辿り着き、先生に無事を報告した後、西明石から舞子まで歩き、漸く動き出した汽車に乗り、夜遅く垂水の家に辿り着きました。

数日後、職場の後片付けに出勤を命じられましたが、工場内は至る所に直径10m余り、深さ5m程のクレーターができ、屋根も壁も爆風に吹き飛ばされて跡形も無く、屋根の鉄骨の所々に作業着の切れ端が、小さな肉片がへばりついて、空爆のすさまじさを見せつけられました。川崎航空機明石工場は高性能爆弾の威力と正確極まりない爆弾投下技術のため、この日の僅かに34分間の空爆だけで生産能力の90%を失いました。

私はそれ以来半年余りの間、超高空を飛ぶ飛行機の爆音を聞くだけで「また来たか」と思い、避難を考えたくなるトラウマに苛まれましたが、終戦と共にそれから抜け出すことが出来、何時死んでもおかしくない場面に何度も遭遇しながら生き延びることのできた喜びを噛みしめると同時に「自分は何か大きな力によって生かされているのだ」と信じるようになったのでした。

 

 

≪あとがき≫
戦争をするのは誰の仕事でしょう?

戦争というものは自衛隊の人達の仕事で、私達一般の国民には関係ないのでしょうか ?

私達四中の1回生・2回生は日本政府が決めた「国家総動員法」によって勤労動員され、昭和19年の6月から川崎航空機明石工場で戦闘機「飛燕」のエンジンを作る ことになりました。この「飛燕」がB29を撃ち落とすことのできる 唯一の飛行機であることから、アメリカの政府は先ず始めに「飛燕」を作っている工場を爆撃することに決めました。この工場で「飛燕」が作れなくなればB29は日本の空を自由に飛ぶことができ、日本中の兵器工場や軍事施設などを楽々と破壊することができるようになります。また、爆弾や大砲、機関銃、軍艦、飛行場等を作っていたのも「軍隊」ではなく一般の国民です。アメリカから見れば、日本の軍隊も私達のような一 般国民も戦わねばならない敵であり、空襲や沖縄戦や広島・長崎の原爆投下等によって殺すのは当り前のことでした。従って自衛隊でないから戦争は関係ないと思うのは間違いで、皆さんは日本の国をどんな ことがあっても戦争をしない国にしなければなりません。

皆さんの先輩である私達の貴重な経験が皆さんの宝物になることを祈ります。