四中2回生学徒動員の体験を学校長に語る

「学徒動員の体験を語る」

星陵高校の前身である神戸第四中学校(以後四中と記す)2回生6名が、平成27813日母校校長室を訪れました。 
四中2回生は太平洋戦争が始まった翌年、昭和17年に入学。1~2年時はまだ授業も充分出来ていたとのことですが、昭和18年に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されると授業は停止となり、学徒勤労総動員の体制がとられました。昭和195月には三木の飛行場建設、621日には川崎航空機工業株式会社西明石工場へ四中1・2回生約500名が勤労奉仕に動員されました。明石大空襲後も明石、茨木、高槻、二見、鳥羽の各工場へそれぞれ疎開配転されました。しかし、星陵高校の歴史として忘れてはならないのは、昭和20119日川崎航空機西明石工場が標的とされた空襲によって、学徒動員中の四中2回生3名が尊い命を落とし、7名が重傷を負ったという事実です。 

四中2回生の皆さんは、星陵高校の学校長が変わる度に学校長に会われ、その痛ましい歴史を語ってこられたそうです。戦後70周年を迎える今年も、芦田光巨学校長にその歴史を話されると伺い、同窓会を代表して同席させて頂きました。 

 
≪出席者≫

横山昌司・下奥仁・山本恒治・柳ケ瀬康夫小坂修・大谷清隆(四中2) 
芦田光巨学校長

6名の方々に体験談を伺いました。 
小坂修さんと下奥仁さんの話によると、昭和20119日の空襲は兵庫県下への最初の本格的空爆であったため、爆撃の威力についても、避難方法についても、詳しいことを知らない状態だったそうです。突然の爆撃に、指示通り防空壕に避難した人は防空壕もろとも被害に遭い、爆撃に耐えうるだけの防空壕でないことを察して逃げ出しために助かった人もいたといいます。 

亡くなった3人の同級生は3梯団目の流れ弾で犠牲になったように思うとのことでした。若干15歳の生徒が自分たちの力と判断で傷ついた仲間を戸板に載せ、やっとの思いで工場の病院に運んでも、病院自体が爆撃にやられて見てくれる人がいない状態でした。小坂さんは爆弾の落ちてくる音に気付き、防空壕の前の畑の畔道に伏せて目と耳を指で塞ぎました。ドカンという爆音とともにものすごい大地の揺れを感じ、頭から土砂が降ってきましたが、それが収まって周りを見たら1m位先に直径10mほどの穴が空いていました。運命の一瞬だったとのことです。 

山本恒治さんは「この爆撃によっていろいろなことを学んだ」そうです。爆弾が落ちると地面に穴があき、土が跳ね上がって落ちてくる、それが5メートルであったり、明石の時のように10メートルだったりもしました。後に家に焼夷弾が落ちた時にもそれを知っていたことで、7発の焼夷弾を消し止めて危険を脱することが出来たとおっしゃっていました。 

「この日は真っ青な良い天気だった」と大谷清隆さん。そこに最初の8機がやってきて、指揮官機から真っ赤なものが落ちてきた直後、海鳴りのような爆撃音がして防空壕から逃げ出したそうです。防空壕が潰れると防空壕の中にあった金属は壊れて出刃包丁よりも鋭利な凶器となり、首のない遺体がそのあたりに散乱したり、屋根の上にまでぶっ飛んだ遺体がひっかかったりしたそうです。「やりやがった!」という悔しさが恐怖に変わり、爆弾の雨の中を逃げたといいます。 

九死に一生を得た柳ケ瀬康夫さんは旋盤を仕上げる仕事をしていました。空襲警報がなり、外に出ると防空壕は既にいっぱい。とっさに畔に飛びこまれたそうです。地面に直径10メートルくらいの穴が出来、落ちてきた粘土の塊に当たって重傷を負いました。息が出来ず、水中深く潜ってもがいている感じで、母親に会いたい気持ちが火の玉のように寄ってきたり、遠のいたりしたそうです。担がれて松の木の下に置かれると、そこには亡くなった同級生の後藤さんがいて「やられたんか」「やられてん」という言葉を交わされたそうです。爆撃がしばらく続いた後、戸板に載せられて食堂のテーブルに運ばれると、吹っ飛んで鉄骨だけになった建物に遺体がぶら下がっていたのが見えたといいます。 

柳ケ瀬さんはその後玉津の病院、明石の病院、三ノ宮の病院と転々とされました。三ノ宮の病院で手術を受ける時には骨折した太ももが胴体くらいに腫れ上がりました。移動する後から後から、追われるように自分のいた病院が爆撃に遭うという恐怖。自分の人生は24歳くらいまでには終わるだろうと考えたともいいます。杖をついて歩けるようになるまで実に2年半がかかりました。今も後遺症に悩まれているとのことですが、このような数奇な運命から何かをしなければならないと悩み、社会貢献を続けてこられました。「なかなか死ねるものではない」柳ケ瀬さんはそう言葉を締めくくられました。 

横山昌司さんは夜勤のため家で熟睡中、空襲警報でたたき起こされました。物干し台から西に向かう米軍爆撃機が4梯団、次から次へと西に向かっていくのが見えました。須磨の鉢伏山を越えて暫くするとドカンドカンと爆撃音が鳴り響きましたが、この時は川崎航空機西明石工場がやられたとは思わなかったそうです。夜8時頃、神戸駅改札で「川崎航空機従業員は明朝出勤せよ」との看板があるのを見て、はじめて工場が爆撃されたと判りました。翌日、現場を訪れた横山さんは悲惨な光景を目の当たりにしました。他の皆さんは爆撃を体験した恐怖から片付けには参加されなかったようですが、横山さんは逆にその片付けに参加されたということです。 
時が流れ、亡くなった3名の同級生の33回忌を迎えたのを機に、四中2回生は同期会「青雲会」を立ち上げました。横山さんも事務局として長年「青雲会」に関わってこられ、2年に一度同期会を開催されてきましたが、80歳を迎えた平成21年の10月、最終の同期会を舞子ビラで開催。25名が参加しました。 

校長先生にも感想を頂戴しました。

終戦から70年を2日後に控えた813日、四中2回生6人の皆様から学生時代の戦争体験をお聞きしました。学徒勤労総動員の体制がとられたあとは学校から離れた三木や明石の工場等でそれぞれ違う仕事をされていたそうです。なかでも昭和201月の明石空襲の際、それぞれの方が爆撃される中をどのように行動されたかを伺いました。話をされながら脳裏には当時の様子が鮮明に浮かんでいるように思えました。 

特に印象に残ったのは、柳ヶ瀬さんのお話でした。ご自身も大腿骨骨折の重傷を負われましたが、隣に寝かされた同級生が言葉を交わした直後に亡くなったそうです。まさに生死が隣り合わせだった状況を聞き、胸が痛みました。その方を含め、2回生3名の尊い命が奪われた事実を忘れてはなりません。 

今の高校生達は平和な世の中にあって、いつ爆撃されるかという恐怖も無い、勉強しようと思えばいくらでもできる、食べるものが無くおなかを減らすという状況も無い恵まれた環境に育っています。そのありがたさを理解するために、また、二度と戦争で亡くなる学生が出ない社会を作っていくためにも先輩方の体験を伝えていくことが必要だと痛感しました。お忙しい中、ご来校いただきありがとうございました。

芦田光巨 


HP
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